──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』と...の画像はこちら >>
源義経(菅田将暉)と静御前(石橋静河)|ドラマ公式サイトより

 『鎌倉殿の13人』、先週の第19回「果たせぬ凱旋」と同様に、次回の第20回「帰ってきた義経」もドラマの中心は源義経になりそうです。

 義経が平家を滅亡させたのは、元暦2年(1185年)3月のこと。

しかし、その年もまだ終わらぬうちに、義経は都落ちする悲運に見舞われます。敬愛していた兄・頼朝との関係がこじれてしまったからでした。ドラマでは後白河法皇(西田敏行さん)が小さな毬(まり)を脇に挟み、強く身体に押し付けて脈を止めるという“裏技”を使ってまでして義経を翻弄、兄弟仲を悪化させる企ての限りを尽くす様子が描かれましたが、史実は少々違うようです。

 ドラマでは後白河法皇の采配に困惑し、何度も聞き返していた公卿が九条兼実(田中直樹さん)なのですが、彼の日記『玉葉』によると、元暦2年10月、義経は何回も後白河法皇のもとを訪れ、「私に頼朝追討の院宣を与えてください」と迫り、彼の言葉には、「もし断れば天皇・法皇など朝廷の重要人物を人質に取って、西国に逃走するぞ」という脅しが含まれていたのだそうです。

 後白河法皇は義経から半ば脅されるような形で頼朝追討の宣旨を出すことになったので、ドラマで「あの……例の若造に脅されて、無理やり、なぁ?」「全部あいつのせいなんだよ」などと義時らに言い訳をしていたのは、上記の話を反映したものでしょう。

 その後、同年11月2日~3日にかけ、義経はふたたび後白河法皇に面会し、今度は四国・九州の荘園支配の権利を正式に獲得しています。

すると彼は朝廷の重要人物を人質にすることなく、法皇に別れの挨拶だけして、自身の手勢たちと共に都を立ち去り、頼朝が送ってきた追討軍との衝突を回避しました。

 このときの義経の対応について、九条兼実はホッとしたのでしょうか、「義経(略)後代の佳名をのこすものか、歎美すべし、歎美すべし(※『玉葉』の原文をひらがなと漢字表記に変更)」などと賛嘆しています。九条は頼朝の肩を持つことが多いため、義経を高く評価したことは貴重かもしれません。

 このように、実際の義経は史料を見るかぎり、軍才だけの男ではなく、法皇を振り回す程度には狡猾な政治家としての部分もあったのではないかと見受けられます。

 また、都落ちする時の義経は、失意というより、むしろ兄・頼朝を打ち倒そうという闘志をみなぎらせていたのであろうことが、彼の都落ちに同行した援軍の数から推測されます。『平家物語』の「判官都落」によると、義経が連れて行ったのは「五百余騎」だったとか。

多いとはいえなくても、(房総半島に落ち延びた時の頼朝が味方を募ったところ、千葉常胤が連れてきたのが300騎だったことを思えば)少ない数とはいえないでしょう。

 先述のとおり、義経は都落ちする前に、後白河法皇から四国・九州の荘園の支配権を認めてもらったわけですが、そこには、頼朝との対決までに、当地の武士たちを金のチカラで味方に引き入れる目論見があったのだろうと思われます。史実の義経は、かなり世慣れた男であったということです。前回の『鎌倉殿』では、味方がろくに集まらぬまま都落ちせざるをえないと嘆いていましたが、史実ではそこまで侘しい旅立ちではなかったと思われますよ。少なくとも京を離れる時点では。

 しかし、その後の運命は義経には味方してくれませんでした。

義経は大物の浦(現在の兵庫県・尼崎)から船に乗り、九州に向かって出航したものの、彼に滅ぼされた平家の呪いが襲いかかってきたかのように強烈な嵐に巻き込まれ、一晩遭難した挙げ句、目的地とは程遠い住吉の浦(現在の大阪市)に漂着することになります。能楽などで有名な「船弁慶」はこの逸話を基にしたものです。ドラマでは、追われる身となった義経が北条時政・義時父子の前に姿を現した際、時政は「九郎義経は九州へ逃げ落ちたと聞いておる。かような所にいるはずはない」と言って見逃していましたが、このセリフもこのエピソードを意識したものでしょう。(1/2 P2はこちら

静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
源義経(菅田将暉)と里(三浦透子)|ドラマ公式サイトより

 義経が九州へ出航した時、どれぐらいの手勢がいたかは詳しくはわかりません。『平家物語』では、義経の船に同乗した味方の数の記載こそありませんが、義経が連れていた「女房」の数だけでも「十余人」とのことですから、かなりの大人数であったのではないかと想像してしまいます。

これらの女房はすべて義経の愛人だったと見る人もいますが、仮にそうだったとすると、少なくともその多くと義経は特別な関係だったのでしょうね。都に残していけば、いらぬ詮索を頼朝軍から受けるであろうことを義経は恐れたのかもしれません。

 ドラマには登場しませんでしたが、義経は蕨姫(わらびひめ)の通称で知られる平時忠の娘を側室としたという記録が『吾妻鏡』にはあります(文治元年九月二日条)。正室の同意あってこその側室ですから、正室の同意なく懇意になった女性は山のようにいたでしょう。『鎌倉殿』では正室・郷御前(ドラマでは里)と側室・静御前のバトルが描かれましたが、このような諍いは実際にも義経周辺で頻繁にあったのでは……と筆者には思われます。

 義経はこのようにモテてはいるのですが、女性たちには驚くような薄情さも見せています。

乗っていた船が嵐で破損した状態で住吉の浦に打ち上げられ、九州に逃れるという起死回生策が断たれてしまった義経は、例の女房たちを浜辺に捨て置き、自身はわずかな部下たちと共に吉野山に消えました。「関係があった」程度の女は、彼にとって優先順位が低く、「もう、どうでもいいや」となったのでしょうか。『平家物語』によると、義経に見捨てられた女房たちは、泣いているところを土地の人の手で救われ、都に送り届けられたとか……。

 この時の義経が唯一、連れて行こうとした女性が静御前だったといわれますが、この二人の別れもすぐに訪れました。一行が次に向かった吉野山で、義経は静と別行動を取ることを決断したのです。おそらく女の足では急な吉野の山道を移動し続けることが困難と判断してのことでしょう。

静は、義経と別れた直後に、鎌倉方の兵に捕らえられてしまっています。ドラマでは比較的あっさりと描かれた義経と静の別れですが、実際にはかなりの紆余曲折があったようです。

 静を切り捨てたことが功を奏したのか、吉野山そして京都周辺にも潜伏していたとされる義経一行は、鎌倉方の必死の探索にもかかわらず、なかなか見つかりませんでした。さらにこの時期、義経は、都落ち以前から京都周辺に匿っていたと思しき正室・郷御前のもとにも何度も現れ、“しのび逢い”を続けていたことがわかっています。なぜなら義経の都落ちの翌年にあたる文治2年(1186年)、郷御前が義経の娘を生んだという記録が『吾妻鏡』に出てくるからです。

 ドラマの義経は都落ちの際、妊娠中の静御前は置いていき、里(郷御前)だけを連れて行くと宣言し、後で静御前とふたりきりになった際に「里を連れていくのはあれが比企の娘だから。いざという時の人質だ」と説明していましたが、それも史実とはまるで違うのです。確かに郷御前は母方の血筋が比企氏ゆえに「比企の娘」といえるのですが、彼女の父方の河越家は、義経との強い関係ゆえに頼朝から疎まれており、所領が没収されただけでなく、当主と嫡男の命さえも奪われていました。義経が郷御前を連れて逃げたところで、ドラマで説明されたようなアドバンテージはなかったはずなのです。

 また、先述の通り、義経は郷御前を京都の周辺のどこか(一説には岩倉あたり)に匿い、そこを訪れていました。そして、彼女が義経の(何人目かの)子を懐妊するほどに愛し合っていたことはわかっています。普通に考えれば妻を実家に帰してもおかしくないような状況でも、義経がそうしなかったのは、郷御前から「もう私が帰るべき家はない」と言われていたからかもしれませんね。頼朝と敵対してしまった義経と、頼朝に家族を殺され、財産も奪われた郷御前の関係は、この時、さらに深まったことと推測されます。

 義経といえば、まず愛妾の静御前が思い出されるのは当然のことかもしれません。義経が共に九州を目指して落ち延びようとした相手は郷御前ではなく静御前だったわけですし、次回のドラマでも描かれるであろう、彼女が鎌倉の八幡宮にて奉納の舞を披露した(実際は北条政子の希望で、ほとんど強要されるような形で舞を披露させられた)エピソードや、彼女が義経の子を出産直後に、男子であるという理由で殺されてしまった悲劇など、ドラマティックなエピソードが多く伝えられていますから。しかし、見方を変えれば、吉野山で義経と別れた静御前は「途中で見捨てられてしまった」と言え、義経にずっと守られ、愛され続けたのは正室・郷御前だけであったとも考えられるのです。

 その後、激化する一方の鎌倉方の探索の手を逃れるように、義経は上方を脱出、奥州の藤原秀衡を頼ることになりました。郷御前は義経一行とは同行しませんでしたが、『吾妻鏡』によると、文治3年(1187年)2月、彼女は山伏、子供は稚児という扮装で奥州に向かっています。

 あらためてここで注目すべきは、文治2年に生まれたとされる娘以外にも、稚児の扮装ができるほどに成長した子どもが、義経・郷御前夫婦の間に生まれていたということです。乳飲み子の女の子は、断腸の思いで誰かの手に託さざるをえなかったのでしょうか。1歳になるかならないかの乳幼児が、寺社に仕える稚児の姿になることはできませんからね。しかし、郷御前も出産からあまり日が経っていない中での長距離移動は身体に堪えたと思われます。それでも義経を追いかけていったのですから、相当な絆が二人の間にはあったと見るべきでしょう。

 かくして二人は奥州の地で再会を遂げたと考えられるのですが、その喜びは長くは続かず、夫婦の未来は闇に閉ざされてしまいました。義経が頼りにしていた藤原秀衡が文治3年10月に急死し、後を継いだ秀衡の息子・泰衡は、頼朝から再三にわたってかけられた圧力を跳ね返すことができず、文治5年(1189年)、ついに義経暗殺に加担してしまいます。そしてこの時、郷御前はわが子を道連れにして、義経との死を選んだことが知られています。ドラマの義経と郷御前の描かれ方には、史実の断片から垣間見られるような愛情が通っている素振りはまだ見られませんが、残されたわずかな時間の中で、二人の関係に“変化”は起きるのでしょうか……。

<過去記事はコチラ>

「天才」と「凡人」を描く『鎌倉殿』で異例の描かれ方をした“貴公子”平宗盛──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...
静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
日刊サイゾー2022.05.15『鎌倉殿』はどのように描く? 義経“大活躍”の「壇ノ浦の戦い」における虚構と真実──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...
静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
日刊サイゾー2022.05.08『鎌倉殿の13人』 義仲と巴御前、義高と大姫の“悲恋”と、生き残った女たちのその後──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...
静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
日刊サイゾー2022.05.01冷酷な頼朝を描く『鎌倉殿』 “クレイジー義経”は「一ノ谷の戦い」で本領発揮か──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...
静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
日刊サイゾー2022.04.24上総広常の謎めいた死を『鎌倉殿』はどのように描くか 疑惑の人物と「直筆の願文」──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ...
静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
日刊サイゾー2022.04.17