藤波辰爾Twitter(@dragondradition)より

 9月3日と10日の2週にまたがって放送された、『1オクターブ上の音楽会』(NHK)が抜群だった。

 新たな企画案のパイロット版を制作する、『レギュラー番組への道』なる枠で放送されたプログラムである。是非とも、レギュラー番組になってもらいたい。

コサキンが「マイクを持つと小学生」と藤波をネタに

 謎の洋館に住む名盤コレクター(竹中直人)が主宰する奇妙な音楽会を舞台にした、この番組。「1オクターブ上」とは、歌謡曲全盛の時代に常識を突き抜け、異色の輝きを放った名曲を指すのだそう。

 第1回(3日放送)で紹介されたのは、演歌の巨匠・船村徹が手掛けた「スナッキーで踊ろう」(海道はじめ)と、大瀧詠一が手掛けた「イエロー・サブマリン音頭」(金沢明子)。第2回(10日放送)で紹介されたのは、プロレスラー・藤波辰巳(現・辰爾)の「マッチョ・ドラゴン」と、麻里圭子の「かえせ!太陽を」である。

 なに、この選曲は? TBSラジオで放送されていた、小堺一機と関根勤による「コサキン」リスナーがまさしく歓喜するセットリストだ。今回、取り上げられたのはコサキンソング(番組内で話題になった曲)ばかりなのだ。企画したスタッフは絶対にリスナーだと思う。

 本稿で取り上げたいのは、第2回に紹介された藤波の「マッチョ・ドラゴン」だ。

 同曲がリリースされたのは、1985年。そして翌86年、「マッチョ・ドラゴン」はコサキンリスナーに見つかってしまった。この曲の何が注目を集めたかというと、藤波の歌唱力だ。書籍『コサキンのひとみと悦子』(シンコー・ミュージック)には、以下のように記されてある。

「そのあまりの歌のヘタさに“マイクを持つと小学生”と番組で度々ネタされていた」

 藤波の歌唱力は、いろいろな意味で定評がある。愛妻・伽織夫人と『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ系)に出演した際は、審査員の近江俊郎から「誰か1人、音を外した人がいる。それを研究中です」と、ジェームス三木からは「このチームは上手い人がいないんですね」と酷評される始末だった。藤波の「マッチョ・ドラゴン」は、下手するとライバルの長州力に「これ聴いたら飛ぶぞ」と言われかねない迷曲なのだ。

蝶野正洋「藤波の歌手デビューは誇りだった……聴くまでは」

 番組は藤波の半生をおさらいしながら、「マッチョ・ドラゴン」の誕生秘話を掘り下げた。

 1953年に大分県に生まれ、16歳の頃にアントニオ猪木に憧れて「日本プロレス」に入団した藤波。その後、師匠・猪木が立ち上げた「新日本プロレス」に旗揚げから参加。ジュニア・ヘビー級を確立した立役者となり、“ドラゴンブーム”を巻き起こすまでに成長している。元祖・イケメンレスラーの藤波は、新日を代表するスター選手に躍り出たのだ。

 しかし1984年、新日は長州をはじめとする選手の大量離脱に見舞われて大ピンチに陥った。団体を揺るがす未曾有の危機を救うべく持ち上がったのは、看板選手・藤波の新たな入場曲を作るビッグプロジェクトである。しかも、歌うのは藤波本人だ。

 なんで、こうなるのだろう……? 社運を賭けるプランが、よりによって藤波の歌だなんて。人間、ピンチに陥るとまともな判断ができなくなるものだが、だとしても謎の思考だ。

 確かに、当時は「全日本女子プロレス」でクラッシュギャルズが音楽活動を行っていたし、プロ野球選手も頻繁にレコードをリリースしていた。なにより、男子プロレスラーのレコードデビューも少なくなかった。80年には阿修羅原の「想い出さすぜ」が、81年にはジャンボ鶴田の「ローリング・ドリーマー」と木村健吾(現・健悟)の「らしくもないぜ」が、84年にはマイティ井上の「エマの面影」が、そして86年には長州の「明日の誓い」が、それぞれ世に出ている。この流れに藤波も乗っかったのだ。

 当時の状況を藤波本人と、藤波の後輩でこの頃はまだ若手選手だった蝶野正洋が振り返っている。

「自分がレコードを出すという話が来て、メラメラとするものがありましたね」(藤波)

「藤波さんはプロレス界の顔ですし、新日本プロレスの顔です。スーパースターの藤波さんが歌を出すっていうのは、やっぱり我々にとっては誇りですよね。……聴くまでは」(蝶野)

 蝶野のコメントが相変わらず秀逸だ。素晴らしすぎる倒置法だと思う。窮地を救わんとメラメラ燃える“スーパースター”藤波は、若手勢からしたら誇らしく見えたのだろう。聴くまでは。

 実は、「マッチョ・ドラゴン」には原曲がある。イギリスで活動するエディ・グラントの「Boys in the Street」に日本語の歌詞をつけ、大胆なアレンジを施したナンバーだったのだ。編曲は若草恵で、作詞は森雪之丞という素晴らしく豪華な布陣。日本屈指のヒットメーカー2人だ。

「かなりすごい人(ミュージシャン)を使いました。自分の中では100%でできたと」(若草)

「やっぱり、(藤波は)正義のプロレスラーだと思うので、そういうヒーローを描きたかった。絶対、日本のほうが演奏とか総合的にカッコいいと思います」(森)

 改めて「マッチョ・ドラゴン」を聴くと、アレンジはまさしく一線級の80年代ポップスだ。実は、山下達郎も自身のラジオ番組『山下達郎のサンデー・ソングブック』(TOKYO FM)でこの曲を取り上げたことがあり、「エディ・グラントのバージョンより藤波さんの(バージョンの)ほうが演奏が全然いい」と称賛している。俳優の根津甚八も「Boys in the Street」をカバーしているが、アレンジだけに注目すれば完全に「マッチョ・ドラゴン」のほうに軍配が上がる。

 このクオリティだけで、関係者の熱の入れようはビンビン伝わってくるというもの。新日にとっては危機脱出のための起死回生砲だっただけに、制作には相当な予算が充てられたのだろう。

 そして迎えたレコーディングの日。ついにドラゴンの口が開き、歌声は轟いた。

「いなぁ~づぅまがやみをさ~いて~ お~でをよんでどぅ~ あ~くとちらすひ~ばな~ じがくいじゃあんぐぅるおー まぁかにそめーてやるー マーッチョドラゴンッ」
(稲妻が闇を裂いて 俺を呼んでる 悪と散らす火花 四角いジャングルを 真紅に染めてやる マッチョドラゴン)

 いざ、藤波の歌声を聴いた関係者たちの証言は以下。

「マッチョ・ドラゴンじゃなくてマッチョ・エンジェルだったなというふうに思いました。天使の歌声ですよ、やっぱりあれは」(森)

「見てるこっちのほうが恥ずかしくなってきちゃう。本当にいたたまれなくって」(伽織夫人)

 あまりにも辛辣な伽織夫人。もう、ボロクソだ。奥さんから「いたたまれない」とまで言われてしまうなんて……。あと、作詞家の森が藤波の歌唱を「天使の歌声」と評していたのはさすがだった。というか、小学生みたいな歌声のわりに、「息の根止めてやる」「ナイフの切れ味」と歌詞が血生臭すぎるのだ。しかし、それで唯一無二の存在感を生み出したのだから、やはり転んでもただじゃ起きない藤波。さすが、ドラゴンだ。

 当時、まだ若手だった蝶野の「マッチョ・ドラゴン」に対する印象は以下である。

「毎朝、あれが(合宿所の)起床の音楽で流される。7時前後とか。近所に聴こえるくらい(の音量)。あと、たぶん練習中もかかってたんじゃないかと思うんで、ずっと流れてた記憶があります。もう、とにかく耳から離れない」(蝶野)

 目覚めとしては最悪だ。朝7時から「マッチョ・ドラゴン」が流れる、地獄のような合宿所。もし本当に近所に聴こえていたならば、公害スレスレである。

 蝶野のコメントで特に気になったのは、「練習中もかかってた」という一言。これについてより詳しく説明がされたのは、蝶野と同期のプロレスラー・船木誠勝が自身のYouTubeチャンネルで語った藤波の思い出である。若手時代、船木は藤波の付き人だった。

「怒った藤波さんを見たことは、実は1回しかありません。『マッチョ・ドラゴン』という、藤波さんの出した歌があります。『マッチョ・ドラゴン』で入場していた時期もありました。そのとき、自分は付き人なのでカセットテープを買って部屋で聴いてたんですけども、そしたらそこに“破壊王”橋本真也が入ってきました。『おい。面白い曲だなあ、藤波さん』。で、(橋本が)歌のマネをします」

「道場にもカセットデッキがありましたので、夜の人数が少ないときは好きな音楽をかけてウエイトトレーニングとかをしていたんですが、橋本選手が物凄く『マッチョ・ドラゴン』を気に入ってしまったようで、ずっとかけてるんですね。ずっと」

「それを聞きつけたドン荒川さんが、なんと普通の合同練習の最中に『マッチョ・ドラゴン』を流してしまったんです。そしたら、藤波さんが無表情でバチッと消してカチャッと出して、カセットテープを何かで踏みつけて粉々にして、ゴミ箱にポイッですね。後にも先にも、怒りの藤波さんを見たのはそのときだけです」(船木)

 相変わらず、ノリがひどい荒川と橋本。「マッチョ・ドラゴン」も嫌な愛され方をしたものである。ちなみに、2005年にケンドー・カシンがリーグ戦「G1クライマックス」に出場した際は、自身の入場曲に「マッチョ・ドラゴン」をミックスさせ、それを知った藤波がバックステージで激怒したというエピソードも漏れ伝わってきている。

 当の藤波は、自身の歌唱についてこう言っている。

「もし、これが周りがみんな絶賛だったら、もっと表に出てきてもよさそうなものがねえ。ということは、あまり良くなかったのかな(笑)」(藤波)

“天使の笑顔”で“天使の歌声”を自己分析した藤波。船木の証言から「マッチョ・ドラゴン」でスイッチが入る“怒りの藤波”のエピソードを聞いていただけに、よく藤波は出演をOKしてくれたものだとマニアは驚いている。

「マッチョ・ドラゴン」がリリースされるや否や、藤波の入場テーマは彼の歌を抜いたインストゥルメンタルへと変更された。仕方ないことである。

 藤波の入場曲といえば、最も有名なのは「ドラゴン・スープレックス」だろう。ただ、テーマ曲を「マッチョ・ドラゴン」に変えた85年は、ちょうど年末のIWGPタッグリーグ優勝戦(アントニオ猪木&坂口征二 VS 藤波辰巳&木村健吾)で藤波が師匠・猪木から初めてピンフォールを奪った時期にあたる。ヘビー級に転向後、第2の全盛を迎えようとしていたドラゴンの充実期を象徴するテーマ曲が「マッチョ・ドラゴン」なのだ。

 85年末は前田日明率いるUWFが新日にUターンを果たし、それまで以上の殺伐さがリング上に漂い出す時期でもあった。翌86年、東京体育館で行われた新日 VS UWFのイリュミネーションマッチでは、殺気バチバチな雰囲気のなか「マッチョ・ドラゴン」(インストゥルメンタル)で登場する藤波の勇姿がファンの印象に強く残っている。なんだかんだインストバージョンに限っては、今聴いてもゾクゾクしてしまうのがプロレスファンの性だ。

 番組内では、現在の藤波のファイトぶりも紹介された。御年68歳の藤波は今もグッドシェイプな分厚い身体を保っており、ドラゴンはいまだにマッチョだった。なにしろ、今年12月1日には棚橋弘至(45歳)とのシングルマッチが予定されているのだ。

「『マッチョ・ドラゴン』が今、自分の中で現役を続行する1つのエネルギーになって、背中を押してくれている。倒れそうになったら、自分の『マッチョ・ドラゴン』が後押しをしてくれてるなあという感じがしますね」(藤波)

 というわけで、スタジオに藤波が登場した。37年ぶりに藤波が歌唱を披露するのだ。衣装は「マッチョ・ドラゴン」のジャケットに合わせ、ピンク色のブルゾンである。藤波はピンクがよく似合う。

「藤波、生歌を披露」の報を聞き、蝶野は驚いた。

「歌うんですか!? 歌う、ああ……。いや、ただ、あの曲は(耳から)離れない何かを持ってますよね。今だったら理解される、うん。当時も理解してました、我々は。我々は理解してた。世間はわからないですけど、我々は理解してたからね」(蝶野)

 サングラスを掛けててもびっくりしているのが伝わる、“黒のカリスマ”の顔芸。「当時も我々は理解していた」と言い逃れしているが、その顔には「早くドラゴンストップしろ」と書いてある。おそらく、蝶野がこの機会を1番面白がっている気がする。

 そんな後輩のコメントVTRをニコニコしながら見つめていた藤波。本人が風評をあまり気にしていなさそうなのがいい。なにしろ、リリースから37年も経過した曲だ。これほどの年月が経てば、恥ずかしさや憤りは消えていてもおかしくない。

 ちなみに、この辺りでTwitterでは「マッチョ・ドラゴン」がトレンドワード入りを果たしていた。番組の構成と蝶野のコメントにより、ハードルは上がる一方だ。あと、テレビはNHKしか見ないようなご高齢者が藤波の生歌を聴いたら、どう思われるのかがプロレスファンとしては少し気になった。

「当時を思い出して今、すごいドキドキです。37年ぶりに歌うってなると(笑)」(藤波)

 謎の緊張感が藤波と視聴者を包む。見ているこっちも、なんだか汗ばんできた。この日、藤波の歌を聴くためにプロレスファンは一日を懸命に過ごしたと言っても過言ではないのだ。85年12月12日(前述のIWGPタッグリーグ優勝戦)、猪木に決めたのを最後に封印されたドラゴンスープレックス並みに「マッチョ・ドラゴン」も幻扱いだ。

 さあ、ついに藤波のパフォーマンスが始まった。MVと同じようにバックダンサーが付き、バンドの演奏はカッコ良くアレンジされている。改めて聴くと、何気にリズムが取りにくいナンバーだ。こんな難曲をドラゴンは与えられていたのか。

「いなぁ~づぅまがやみをさ~いてー お~れをよんでるー あ~くとちらすひ~ばな~ しかくいじゃんぐるをー まっかにそめーてやるー」

「大事故になる?」とドキドキしていたが、明らかに藤波は37年前より歌が上手くなっていた。もっと、昔は声が高かった。そこが「マイクを持つと小学生」と笑われる所以でもあった。でも、歳を重ねて藤波のキーは下がった。結果、それが68歳の意外な渋みにつながっている。

 もちろん、決して完璧とは言える出来ではなかった。例えば、入りの「いなぁ~づぅま」の部分。ここで、藤波は少しタイミングが出遅れたのだ。逆に言えば、彼は間違いなく口パクをしていない。撮り直してもいいはずなのに、そのまま流したのも良かった。

 何より、一生懸命歌う姿に藤波の人柄が表れていた。サビの「マッチョドラゴン♪」の箇所は、曲に合わせて本人も口を動かしていたし、真面目でストイックな性分はそこかしこから伝わってきた。

 本音を言えば、当初は爆笑するつもりでいた。でも、藤波の真摯な姿を見て筆者は己の気持ちを悔いた。50年のプロレス人生を背負ったドラゴンの歌声である。年輪を重ねた男の哀愁が加わり、ストレートに心に沁みたのだ。

 実は、「この企画はテレ朝がやるべきでは?」とも最初は思っていた。でも、結果的にNHKでよかった。もし民放が取り上げたら、『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)の「歌へた王座決定戦スペシャル」的ないじられ方をされた気がするからだ。

 藤波も、「マッチョ・ドラゴン」制作に関わった人たちも、みんなこの曲にプライドを持っていた。藤波も堂々と精一杯歌ったし、作詞家も編曲者も「マッチョ・ドラゴン」を黒歴史にしていなかった。

 スポニチアネックスの記事(9月8日配信)に、37年ぶりの生歌を決意した藤波の裏話が明かされている。以下は、『1オクターブ上の音楽会』の制作統括・相部任宏氏の談だ。

「藤波さんは楽曲発表時の経緯もあり、当初は(出演を)大変悩まれていたが、ご長男のLEONAさん(プロレスラー)の後押しや、今年がデビュー50周年の節目ということもあり『ファンへの感謝のしるし』としてご快諾に至った」(相部氏)

 デイリースポーツonline(9月8日配信)によると、実は藤波は出演オファーを1度断っているらしい。しかし、「変なものじゃないなと。ちゃんと『マッチョ・ドラゴン』を紹介してくれる」(藤波)と理解を示し、出演を受諾したそうなのだ。相部氏は、番組を作るうえでの心構えを以下のように語っている。

「その人が何十年の歳月を経て、そこに立って、その曲を歌うことを大事にしたかった。出演していただいたみなさんの楽しさと緊張が同居する最高の収録になった」(「スポニチアネックス」9月8日より)

 なにしろ、37年ぶりの「マッチョ・ドラゴン」解禁だ。今回の収録について、藤波は「猪木さんとの60分フルタイム(88年8月8日、横浜文化体育館での猪木とのシングルマッチ)より疲れた」(「デイリースポーツonline」9月8日より)とコメントしている。

 かつて、本人にとっては地雷だった「マッチョ・ドラゴン」。しかし今回、歌い終えた藤波は満面の“ドラゴンスマイル”を浮かべていた。相手のすべてを受け止め、耐え抜いた末に逆転の3カウントを奪う彼の“受けの美学”を象徴するかのような歌唱だったと思う。まるで、リング上の勇姿そのままだったのだ。

 藤波の人間性とファイトスタイル、そして番組制作者の熱意によって行き着いた結果だ。37年ぶりの「マッチョ・ドラゴン」に、筆者は笑いながら感動していた。

おそらく、毎週の放送は厳しいと思う。ネタ切れが心配だからだ。ならば、改編期の特番という形でもいい。この番組、まだまだ続いてほしい。