『コクリコ坂から』ジブリ 公式サイトより

 ついに公開日を迎えた宮崎駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』の話題で世間は持ち切りだと思われますが、スタジオジブリと関係の深い日本テレビ系『金曜ロードショー』では、最新作公開記念のスタジオジブリ特集の真っ最中。

 2週目となる今夜は宮崎駿が企画、脚本を手掛け、宮崎吾朗が監督した『コクリコ坂から』を放送。

1963年・横浜の学校を舞台に二人の高校生の出会い、すれ違い、この先の未来が語られる青春劇。

 海の見える丘に建つ‟コクリコ荘”に住む女子高生の松崎海(CV:長澤まさみ)は留学中の母親・良子(CV:風吹ジュン)に代わって、コクリコ荘を切り盛りしていた。海は毎朝、コクリコ荘の庭に国際信号機の旗を立て、朝鮮戦争で亡くなった父親を偲んでいた。

 海の通う港南学園高等学校は文化部の部室棟、通称‟カルチェラタン”の取り壊しを巡って文化部男子生徒らが学校側と争っていた。取り壊し反対の論陣を張る学級新聞のチーフ、風間俊(CV:岡田准一)は文化部棟の最上階から飛び降りるという過激な行動に出たことがきっかけで海と俊は知り合い、次第に惹かれあっていき、海の提案で女子生徒たちを巻き込んだ「カルチェラタン大掃除」が実施される。

 コクリコ荘の住民で港南学園OBの北斗(CV:石田ゆり子)がコクリコ荘を去ることが決まり、送別会に風間、彼とカルチェラタン存続運動の代表者である生徒会長の水沼(CV:風間俊介)が招かれる。

 海は亡くなった父親の話とともに、残された写真を見せると俊は急によそよそしい態度を取り始める。

 俊を問いただした海は、彼の口から海の父と俊の父は同じであり、戸籍を調べたところ、二人は兄妹であったというのだ。友達のままでいようと告げられた海は落ち込んでしまう。

「カルチェラタン大掃除」を経て、学内にはカルチェラタン存続を望む生徒の声が大多数を占めるようになるが、学校側は取り壊しを決定してしまう。水沼、俊、海の三人は東京にいる理事長の元で直談判に及ぶのだった。

 その帰り、海は押さえきれない恋心を俊に打ち明けるのだが……。

 本作は、宮崎駿の長男である宮崎吾朗が監督を務めた第二回作品だ。

 三鷹の森ジブリ美術館の初代館長といった経歴を経て2006年に『ゲド戦記』で映画監督デビュー。アニメーターとして未経験ながら監督に抜擢されたこともあって「鳴り物入りで起用された二世監督」などという世間の厳しい声に晒された『ゲド戦記』だが、興行的には一定の成功を収めていた。

「本当の評価は二作目だ」

と、父・駿から発破をかけられた第二弾は、デビュー作のファンタジー作品とはうってかわって1960年代、学生運動が盛んだった時代に老朽化した校舎‟カルチェラタン”の取り壊しを巡って起きる、これは「もうひとつの学生運動」だ。

 デビュー作の『ゲド戦記』では、メインの登場人物であるアレンとテルー、たった二人の登場人物のやり取りを描くだけでも、悪戦苦闘している様子がうかがえた吾朗監督、今回は海と俊、主役級の二人以外の登場人物にそれぞれ個別の魅力があり、人物像を細かく描き分けているのがわかる。

 それら登場人物が住んでいる象徴的な二つの建物には、ジブリ作品らしさが見え隠れする。

 ひとつは海が住むコクリコ荘。病院を改装したという建物は女性だけが住んでおり、家事、炊事、洗濯、掃除などの役割が決められ、手が空いている時は他人を助けるという秩序だった生活が営まれているのがわかる。

 もうひとつは学園の男子文化部員たちが暮らすカルチェラタン。こちらは老朽化して取り壊しが騒がれるのも当然といった趣で、少し歩けば埃が立ち込め、床を虫が這いずり回っている。部屋の隙間に掘っ立て小屋を無理やり作ったような雑然とした混沌の世界はコクリコ荘と対比される。

 住人たちもともに、まだ何者でもないが未来に多くの希望を持っている若者たちだが、コクリコ荘には将来の目標が定まっている者が多くいるのに比べ、カルチェラタンの男子たちは、その、口だけは立派だが行動が伴っていない。

存続を望む学生は少数で、大勢を前に演説をぶっても、誰の心にも響かない。その前に自分たちがいるこの場所をきれいに掃除しろという話だ。

 夢と理想だけは埃よりも高く聳え立っている空間を観て、海は素敵なところだという。まるで毒を放つ腐海を「綺麗」だといったナウシカのように。

 男子だけでは掃除しようという気すら起きなかったところに、女子の手が加わることによって新しく生まれ変わっていく。

 スタジオジブリ作品では時に、男以上に力強い女性の姿が描かれることが多いが、学生運動の時代にも男以上に力強く立場を主張する女性の姿があった。

カルチェラタンの男子たちは時に力強い女の尻に敷かれながら改革を目指す。そして女子の力が入ることによって、これまでカルチェラタンの存続に意欲的でなかった生徒たちも立場を翻して、取り壊し反対の声を上げ始める。

 男女の隔てなく人々が手を取り合い、ひとつの目標に向かって邁進するという、宮崎駿が夢見た理想の社会が『コクリコ坂から』の中にはある。

 そうした物語の中に、海と俊、二人の若者のメロドラマが存在する。惹かれあった二人が実は、血のつながった兄妹なのだという運命のいたずらである。

 ところがこのメロドラマは、あまり盛り上がらずに収束してしまう。

最後には実は血縁関係ではなかったことが判明するのだが、これが普通の作品なら、二人の関係はもっとエモーショナルに高まってクライマックスにつながるように描かれるはずだ。だがそうはならずにしぼんでいく。

 このあたりが「何を言いたいのかがよくわからない」と言われがちな本作への批判につながるのだが、それは吾朗監督が主人公二人のメロドラマなんて、実はどうでもいいと思っているからだ。本当に描きたいのはそこじゃない。

 宮崎吾朗監督の作品『ゲド戦記』と『コクリコ坂から』はかたやファンタジー、かたやリアリティーを感じられる学生運動というタイプの違う二作品ながら、それらに共通するテーマがある。「父親の存在をどう乗り越えるか」だ。

『ゲド戦記』のアレンは賢王と呼ばれた偉大な父親の影に振り回され、ついには手をかけてしまう。『コクリコ坂から』の海と俊は実の父親が不在という家庭の問題に立ち向かい、乗り越えようとする。

 この「父親という存在」とはもちろん吾朗監督にとっての偉大すぎる父親、駿のことだ。吾朗監督には「宮崎駿を超える」という明確な目標を持って映画監督の世界に飛び込んだ人物だ(もちろんこの目標はあまりにも大きすぎるのだけど)。

『コクリコ坂から』にはスタジオジブリ的な世界と登場人物に囲まれながら、それに抗い戦おうとする吾朗監督の矛盾する苦悩が刻まれている。そうした矛盾する苦悩を抱えつつ、立ちはだかる問題に真正面から立ち向かおうとする二人の姿で物語は幕を閉じる。まだ父親であるあなたを乗り越えてはいないが、いつかこの大きな目標を越えて見せる。そんな決意表明が『コクリコ坂から』からは感じられるのです。

 そう考えると宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』とは、吾朗監督に向けたメッセージだったりして! 息子よ、お前はどう生きるか!?