昭和51年、1月28日。練馬区東大泉に暮らす主婦・佐藤明子さん(仮名・当時40)はパートから自宅に帰ったと同時に、隣人の青木友子(仮名・当時47)から出刃包丁で切りつけられた。

顔と頭をひたすらに包丁で切りつけられ、頸動脈切断による出血多量で死亡。合計143カ所もの傷がつけられ、両手首は切断、顔は元の姿がわからないほど切り刻まれていた。

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出刃包丁で143カ所ズタズタに――“うわさ話”に追い詰められ...の画像はこちら >>
D:5(写真ACより)

都営住宅に同年に入居、“普通”の隣人付き合いだった

 友子がこの都営住宅に家族と住み着いたのは昭和32年。夫は、通産省(当時)の工業技術院の課長で、当時21歳の長女を筆頭に、4人姉妹と共に暮らしていた。東京に生まれた友子の父親は早くに亡くなり、女手一つで育てられた。母親はマッサージや三味線を教えながら、友子を大妻女子専門学校へ通わせ、卒業後は千葉県市川市の中学校で教師となったが、1年ほどで退職する。職業訓練校でタイプを習い、工業技術院の採用試験に見事合格。

ここで夫と出会い、結婚に至った。

「犯人の青木さんは、普段から口数が少なくておとなしい奥さんだったんですよ。まさかあんなことをするなんて……」

 近所の主婦たちは事件当時、こう口々に語っている。一方、被害者の明子さんは高校卒業後、生命保険会社に勤める夫と結婚し、のちに遺体の第一発見者となる長女を含む、子ども2人をもうけた。近所でも「都営小町」と呼ばれるほどの美人で明るい性格。PTAの役員を務めるなど地元の信頼も厚く、子どもも成績優秀で、家庭は至って円満であった。

 明子さん一家も、友子一家と同じく昭和32年に、この都営住宅に入居。以後、何もなく“普通”の隣人付き合いをしていた。途中の10年間を、明子さんの夫の転勤先である関西で過ごし、事件の3年前に戻ってきた。明子さんの長女と友子の末娘とは同じ学校の同級生でもあった。

「佐藤さんの奥さんは、おとなしくて几帳面で、きれいな方だけど控え目のいい奥さんです。殺されるほどの恨みを買う人とは思えませんよ」

 近所の主婦たちは、やはり口々にそう言った。

ではなぜ、友子は隣家の主婦を殺害するまでの恨みを抱いたのか。


 ほころびが表面化したのは事件の前年7月。友子は精神科にかかり、医師にノイローゼと診断されていた。しかし、周辺住民はその前から、友子を“異分子”と見ていたふしがある。こんな声も聞こえてきたからだ。

「自分は高学歴ってのを鼻にかけていた。

そのくせ生活はだらしなくて、子どもにも平気で汚れた服を着せていた」

「道で出会っても、ロクに挨拶もしなかった」

 そのうえ、友子夫妻の“不仲ぶり”は、もはやご近所では周知の事実でもあった。家からは、毎夜のように夫婦喧嘩の声が聞こえ、時には「殺すなら殺せ!」という友子の絶叫が近隣に響き渡ることすらあった。夫の勤務先が遠方になり、家を空けることが増えたため、近所では「ダンナさんには女がいて、あまりかまってもらえず、別居までしてたらしいわよ」とうわさ話に花が咲く。さらに、友子の実母も

「青木は、離婚したいということばかり言ってきました。友子のほうは主人にかまってもらえない、と泣いてくることもあり、体のあちこちにアザをつけてきたこともあった。黙っておけば、夫婦だからなおる。

お前が辛抱しさえすれば丸く収まる、といい聞かせては帰したんです」

と、不仲を認める。そして事件前年の暮れのある夜、友子の夫からこんな電話があったことも明かした。

「あんなバカをくれて! そちらへ返すから、明日とはいわん。いますぐ迎えに来てくれ」

 その夫は、夫婦喧嘩の最中に、友子にこう言い放ったことがある。

「少しは隣の奥さんを見習え」

 近所の住民がこれを立ち聞きしていた。

 友子は、このように夫婦の衝突が外に漏れていることや、住民らのうわさ話を知っていたのか。

それとも夫の言葉が呪いのように彼女の心を締めつけていったのか。“見習え”と言われた隣家の明子さんは、家族と共に順風満帆な日々を送っている。

 いつからか友子は、明子さんを単なる隣人ではなく、ライバルとして注視するようになり、最終的には自分の生活を妨害する「首謀者」だと思い込んでいった。

 それは逮捕後の友子の供述からよくわかる。

「佐藤さんは何かにつけて私を目の敵にした。頼みもしないのに私の家の前のドブ掃除をしたのも、私の悪い評判を近所に言いふらすためじゃないか。去年プレハブの子ども部屋を作ったとき、風通しが悪くなる、と文句をつけてきたりしたんです。布団をうちの方に向けてパタパタ叩いたり、電気掃除機でうるさい音を立てたりするのも、嫌がらせだと考えました。佐藤家で飼っていた小鳥もうるさかった」

 こう語り、両手首を切り落とそうとしたのも「この器用な手さえなければ、ドブ掃除も、自転車に乗ることもできなくなると思った」。こんな理由からだった。

 事件前日、友子は何かを訴えたかったのか、実母の住む実家にふらりと現れた。来客中だったため、母は友子に映画のチケットと3,000円を渡した。

「私、『フーテンの寅さん』を見てくるわ。うさばらしになる」

 こう告げて映画に出かけて行った友子の心が晴れることはなく、翌日、事件を起こした。のちに東京地裁で裁かれた友子には懲役10年の判決が言い渡され、控訴せずに確定している。

 彼女は近所のうわさに翻弄されたのか、それとも夫の何気ない一言が重荷となり、不条理を押し付けられた憎しみを明子さんに向けたのか――。

友子と夫それぞれの、その後の“ご近所づきあい”

 妻に心無い言葉をかけたことを認識しているのかいないのか、友子の夫は事件から1年後、驚くべき行動に出た。被害者である明子さんの夫ら遺族を相手取り、3000万円の損害賠償を求める訴訟を提起したのである。事件の示談協議がこじれた結果であった。

「明子さんの夫らは、友子の夫の勤務先上司宛てに、退職を促すような電話をかけ、さらに自宅の周りに『人殺しの家』など、ペンキで書くなどして退職せざるを得ない状況に追い込んだ」など、果たして本当に明子さんの夫によるものか不明な事柄までも訴えてきたのだ。

「もう、呆れてしまって、開いた口がふさがらないといった気持ちですよ」

 と明子さんの夫は当時の取材に応えている。

 そして、逮捕後に警視庁の留置場に送られていた当の友子は「幸恵ちゃん誘拐事件」で逮捕され、留置場に入っていた新井フデ(当時42)と同じ房になっていた。酒に溺れ、職を転々とする……そんな男たちとの結婚や出産、そして離婚の果てに、ようやく好きな男性と結婚したフデ。ところが彼とだけは子宝に恵まれず、他人の子どもを誘拐し、自分の子どもとして育ててきた女性だった。フデは、2日後にやってきた友子をこう慰めたという。

「私もつらい経験をした。あんたも気を確かにもちなさい。しっかりしなさい」

 新たな“ご近所づきあい”が始まっていた。

<参考文献>
「新潮45」2007年3月号
「週刊実話」1999年11月4日号
「女性セブン」1976年2月18日号
「アサヒ芸能」1977年3月17日号
「週刊女性」1976年2月17日号
「週刊ポスト」1976年2月13日号
「週刊文春」1976年2月12日号
「週刊朝日」1976年2月13日号