そうした時期が数年続くうちに、わからないなら、わかるひとに話を聞かなければなにも始まらないと思うようになった。こうして沖縄のヤンキーの調査が始まった。
社会学者による不良への調査としては、1980年代の暴走族を参与観察した佐藤郁哉氏の『暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛』(新曜社)が広く知られているが、打越氏の調査方法は独創的なものだった。ヤンキーの「パシリ」になって、彼らの活動に参加させてもらうのだ。
この手法を思いついた理由を打越氏は、自分がパシリとして荒れた中学を生き延びたからだという。ヤンキーの先輩に逆らうと暴行され、かつあげされるため、休憩時間は彼らが喫煙するトイレの入口で見張りに立ち、先生が来るとくしゃみで知らせる係を買ってでた。「そんな私にとって、パシリになるという方法は、沖縄の暴走族やヤンキーの若者たちを取材する上で無理がなかったし、なにより私の性に合っていた」のだという。
沖縄のヤンキーの「しーじゃ(先輩)とうっとぅ(後輩)」という強いきずな2007年6月、打越氏は那覇市内のゲストハウスに拠点を据えて調査を始める。その当時、夜の「ゴーパチ(国道58号線)」では連日、ヤンキーたちの暴走イベントが行なわれていた。
この頃の沖縄には、離島やへき地、私立を除くほとんどの中学に、それぞれ暴走族があった。マフラーやシートを改造した大型バイクを運転するのは地元のリーダー格の先輩で、その後ろには(小売店の店頭にあるのぼりを失敬し、旗の部分を取り除いた)スティックを振り回す中堅のメンバーが乗る。後輩たちは小型バイクで先輩たちのバイクを追走し、追ってくるパトカーを防ぐ役割だった。