モンテカルロのベイフロントのカフェでビールを飲んでいた。まだ昼前だというのに気温は40度近くまで上がり、すこし歩くだけで汗が噴き出してくる。
だが日本の夏とちがって空気が乾燥しているので、海風が吹き寄せる日陰は素晴らしく快適だ。

 毎年7月から8月にかけて、モナコでは国際花火フェスティバルが開かれる。世界4カ国の代表が呼ばれて華やかさを競うFireworksの祭典で、コート・ダジュールにいるときにたまたまその話を知ったので、せっかくだから立ち寄ってみることにしたのだ。

 カフェの前にはマリーナがあり、クルーザーがぎっしりと停泊している。モナコ湾に自慢の船を浮かべ、花火を眺めながらパーティを開くために集まってきたのだ。

 なかには気の早い船もあって、クルーたちがもうパーティの準備を始めている。ときおりそこに若い女性の二人連れ(一人やグループではなく、なぜかいつも二人だ)がやってきて、クルーと二言、三言話をしていく。今夜の出航時間と、まだ空きがあるかどうか訊いているようだ。パーティの華として、彼女たちは気に入った船を選び、タダで美味しい食事とワインを楽しむことができるのだ。

 観察していると、女の子からまったく相手にされない船もあれば、次々と参加希望者が現われ、クルーが邪険に追い払う船もある。そのちがいは明らかで、クルーザーが大きければ大きいほど若い美女を魅きつけるのだ。

 一般的なクルーザーは70~80フィートで、100フィートを越えれば“豪華クルーザー”といわれた。

だがそんな牧歌的な時代はとうに終わり、いまでは400フィートを超える客船と見紛うクルーザーまで登場した。

 こうした大型クルーザーを個人で所有するにはとてつもないカネがかかる。それをポケットマネーで支払える大富豪のパーティに、自らの若さと美貌を最大限活用したい女性たちが、街灯に群がる蛾のように吸い寄せられるのも当然だ。

 70~80フィートのクルーザーでも中古で数億円はする。マリーナの停泊料やクルーの人件費などを考えれば、年間数千万円の維持費は必要だろう。世間一般の基準では彼らもじゅうぶんに“富裕層”だ。

 しかしモナコのマリーナでは彼らの船は見るからに貧相で、若い女性からも一顧だにされない。パーティを開こうにも招待客は来てくれず、一人さびしく甲板で花火を見るほかはない。だったらマリーナのカフェでピザでも食べながら花火見物したって同じことだ。

リッチスタンの住人たち

 ウォールストリート・ジャーナル記者のロバート・フランクは、『ザ・ニューリッチ』(ダイヤモンド社)でアメリカ新富裕層の知られざる実態を取材した。

 2004年時点で、アメリカの資産額上位1%の層の年間所得総額は約1兆3500億ドルに達し、フランス、イタリア、カナダの国民所得を上回った。そこでフランクは、アメリカには新富裕層だけのヴァーチャル国家が生まれつつあるとして、これをリッチスタン(Richistan)と名づけた。

金持ちだけの国リッチスタンの住人は、一般のアメリカ人とはまったくちがう彼らだけのライフスタイルを楽しんでいるのだ。

 リッチスタン国の「三種の神器」はお城のような豪邸、自家用ジェット、大型クルーザーだ。

 世界金融危機の前、造船業界は未曾有の好景気に沸いていた。リッチスタンの住人たちが競って大型クルーザーを建造したからだ。

 150フィート以上の新船の注文は10年間で倍増して年間200件以上に達し、完成まで2年待たなければならなくなった。販売価格の相場は140フィートの船で約2000万ドル(20億円)、250フィートのものでは7500万ドル(75億円)で、いますぐ手に入る中古船の相場が新船よりも高くなる珍現象も起きた。

 クルーザーの大型化が注目されたのは、1990年代後半にマイクロソフトの共同創業者ポール・アレンがこれまでの常識を覆す400フィートのオクトパス号を発注し、それに対抗してオラクルCEOのラリー・エリソンが全長405フィート、総工費2億ドル(200億円)のライジング・サン号を建造してからだった。

 その後は400フィート級のクルーザーも珍しくなくなり、やがてドバイのシェイク・モハメッド・ビン・ラシード・アル・マクトゥム国王のドバイ号とロシアの石油王のエクリプス号が500フィートを超えた。

 こうした超大型クルーザーはコンピュータ制御のスタビライザーで揺れを予測し、水中翼やジャイロスコープで波を相殺するので海の上にいることを忘れるほどだという。ハイテクのセキュリティシステム、ステレオ、シアター設備、定員12名のジャクージは標準装備で、ゲスト用とオーナー用の二つのヘリコプター発着台を持ち、ローマ風呂にスチームバス、サウナから飛び込みプールまで備えつけている。

 もっともモナコのマリーナでは、こうした超大型クルーザーの勇姿は見ることができない。あまりにも大きすぎて停泊できないのだ。

400フィート級のクルーザーは商業港を利用するしかなく、ポール・アレンがフロリダに行ったときはコンテナ船と油だらけのクレーンの隣に停泊させられたという。

 モナコでは、F1グランプリやモンテカルロラリーのほか、花火大会や舞踏会、ヨットレース、オペラ、クラシック、マジックショーまで年間を通してさまざまなイベントが開かれ、そのたびに超富裕層が自慢のクルーザーを仕立てて社交にやってくる。そうしたリッチスタン国の行事に、私はたまたま遭遇することができたのだ。

生涯使い切ることができないお金をどう使うか?

 超富裕層はビリオネア(資産総額で10億ドル=1000億円を超えるひとたち)で、これはふつうに生活していれば、どんなことをしても生涯で使い切ることのできない金額だ。

 ウォーレン・バフェットのように、6兆円を超える資産を持ちながらもアメリカの田舎町でチェリーコークを飲みながらハンバーガーを食べている大金持ちもいる。しかしほとんどはそこまで達観することはできず、溢れる富を使うために右往左往することになる。そこで登場するのが“大型化”だ。

 超富裕層は自宅でもクルーザーでも自家用ジェットでも、とにかく大きくしようとする。それが自らの富をもっともわかりやすく表現する方法だからだ。古のエジプトの王たちはピラミッドの大きさで権力を競ったが、人類は3000年たってもなにひとつ進歩していないのだ。

 だがクルーザーも自家用ジェットも巨大化には自ずと限界がある。スーパーカーを何十台持っていても、1度に乗れるのは1台だけだ。

高級ブランドの時計やバッグ、ジュエリーで身を飾ってもたかがしれている。美食で散財しようにも、毎日ミシュランの三つ星レストランでは自分がフォアグラになってしまう。けっきょく行き着くところは豪邸と美術品で、絵画の知識も鑑定眼もないのにオークションで何十億円もする絵を買いあさることになる。お金があり余っているというのもけっこう大変なのだ(だからビル・ゲイツやバフェットは資産のすべてを慈善事業に寄付することにしてしまった)。

 もうひとつ私がモナコでビールを飲みながら考えたのは、“富の大衆化”とでもいう現象だ。

 ヨーロッパ中世はもちろんグレート・ギャツビーの時代でも、ほとんどのひとは超富裕層の暮らしなど想像もできなかった。だがいまでは、ほんのすこし散財すれば彼らのライフスタイルの末端を体験するのは簡単だ。

 数百億円するクルーザーで地中海を航海するのと、豪華客船のファーストクラスの船旅はどれくらい違うだろうか。自家用ジェットよりもボーイング747のファーストクラスの方が快適ではないだろうか。

 東京のような高機能の都市に住んでいれば、自宅でシェフを雇うよりミシュランの星つきレストランに好きな料理を食べにいった方がずっと満足度は高い。数千平米の豪邸は管理ばかりが大変で、それなら5つ星ホテルのスイートルームに泊まりながら世界じゅうの観光地を旅した方がずっと楽しいだろう。美術品に興味があるのなら、パリやロンドン、ニューヨークに滞在して美術館を回ればいい。

これならほとんどお金がかからず(大英博物館なら無料だ)、サザビーズやクリスティーズのオークションに出品されるよりはるかに上質の美術品を好きなだけ鑑賞できる。

 こうして考えると、超富裕層の生活はほとんど私たちの想像の範囲内に収まっていることがわかる。でもこれは当たり前で、人間の快楽には限界があり、無限にお金があったとしても、遺伝的に“初期設定”された快楽の量を超えることなどそもそも不可能なのだ(ドラッグを使えば別かもしれないが)。

お金を持っているだけでは尊敬されない

 欧米や日本のようなゆたかな先進国では、富はかつてのような希少性を失ってしまった。そればかりか、ありあまる富は幸福よりもトラブルを招き寄せることが多い(とりわけ子育ては超富裕層のいちばんの悩みの種だ)。モナコで豪華なクルーザーを見てもたいしてうらやましくないのはそのためで、いまではたんにお金を持っているだけでは誰も尊敬してくれなくなった。

 こうした傾向に輪をかけたのが資源価格の高騰で、自分ではなにひとつ努力しなくても莫大な富が流れ込んでくるひとたちが登場したからだ。モナコでもっとも派手なお金の使い方をするのはアラブの富豪とロシアの石油(天然ガス)成金だが、どちらも社交界で尊敬されているとはいい難い。

[参考記事]
●ほとんど問題にされない巨大な経済格差、"法外な幸運"を享受する産油国の実態


 必死に働いてお金を貯め、ブランドものに身を包み高級車を乗り回して富を顕示しようとしても、毎週1億円の宝くじを当てているようなひとが目の前にいれば馬鹿馬鹿しいだけだ。いまや“自己顕示”のためには富以外の付加価値が必要になった。

 ヨーロッパの社交界では王族や皇族を頂点に格式が決まっていて、たんなる成金は相手にされない。だがこれは身分制の残滓を引きずっているから、家柄をひけらかすと逆に批判を浴びることになる。

だからこそヨーロッパの王族は、庶民的・大衆的になろうと努力し、平民出身の女性を妻に迎えるのだ。

 成熟した社会でひとびとが熱烈に求めるものは、金銭ではなくセレブリティだ。この言葉の定義は難しいが、たんなる芸能人(有名人)ではなく、学問や芸術など知的な(高尚とされる)分野で大衆的な注目を浴び、ひとびとから尊敬されることが現代社会ではもっとも価値が高いとされている。

 セレブリティと金銭は往々にして一致するが、セレブがみんな大型クルーザーや自家用ジェットを持ち、ボーリング場やスケートリンクのある豪邸に住んでいるわけではない。

 そう考えると、花火大会に合わせてクルーザーでモナコにやってきて、パーティに若い女性(あるいは娼婦)を集め、招待客が来るかどうかで一喜一憂するのは、血眼になってセレブリティを求める二流の金持ちだということになる。ほんもののセレブはものすごく忙しいので、こんなところまでわざわざ花火を見にやって来たりしないのだ。

 彼らが富を顕示するのは、それ以外に見せびらかすものを持っていないからだ。これはある意味、かなりイタい。

 ドバイもそうだが、モナコも現代における富の意味を考えさせてくれる貴重な場所だ。

 その日の夜は、カジノ・ド・モンテカルロの裏手にある高台から、モナコ湾に打ち上げられる素晴らしい花火のショーを鑑賞した。そして、とうぶんここに来ることはないだろうと思った。

編集部おすすめ