典型的な鬼城は内陸部の新開発区にあるので、北京や上海で飛行機を乗り継がなくてはならない。
ところが天津の浜海新区は国家の威信をかけた都市開発なので、ちゃんと鉄道が通っている。北京-天津は高速鉄道で約30分だから、その気になれば日帰りでも見学可能だ。
天津の開発区が寂れた理由浜海新区は天津の中心部から渤海湾に向かって30キロほどのところにある、総面積2270平方キロ(東京23区より大きい!)の広大な開発区だ。天津地下鉄9号線と直結する高架鉄道・津浜軽軌に乗ったら、まずは泰達(テダ)駅で降りてみよう。TEDAは「天津経済技術開発区」の英訳「Tianjin Economic-Technological Development Area」の略で、ここが天津新都心の中心だ。
泰達には伊勢丹デパートが出店している。下はデパート前と店内の様子で、ご覧のようにほとんどひとの姿はない(木曜午後)。
一方、天津市内の伊勢丹は超一等地にあり、成都の伊勢丹と並んでもっとも成功した日系デパートといわれている。比較のためにこちらも載せておこう。
せっかく天津市内で大成功しているのに、なぜわざわざ顧客のいない新都心に店を出したのだろうか。そんな疑問は泰達駅前に聳える建物を見るとますます募る。
この建物は形容が難しいので、実物を見てもらおう。
ピラミッドと帆船を組み合わせたような巨大建造物はかつて、友誼名都と呼ばれていた。英語名は直訳で、「Friendship names Mall」という。外見からわかるように、超大型ショッピングセンターだ。
ところが建物に近づいてみると、雰囲気は一変する。なんと全館が閉鎖されているのだ。
階段の雑草を抜いていた清掃員のおばさんに事情を聞いてみると、あっさりと「借り手が誰もいないのよ」と教えてくれた。ショッピングセンターはつぶれたわけではないものの、現在は1店舗も入居者がいない。インターネットで検索してみると、2010年頃までは営業していたようだ。
中国人は“ベスト(世界一)”のものにしか興味がないので、最高のショッピングセンターには最高のブランドを集めなければならない、とされている。
ところがディベロッパーは銀行などからの融資を返済しなければならないので、いつまでも無料の賃貸を続けるわけにはいかない。ところがこの“テスト期間”に売上の見込みが立たないと、店舗を維持しても赤字になるだけなので、ブランドはあっさり契約をキャンセルして出て行ってしまう。
こうして櫛の歯が抜けるように店舗が撤退し、見事なゴースト・ショッピングセンターになってしまったのだ。
1店舗も営業していないのでは倒産と同じだが、破綻させると銀行が損金処理しなければならないので、それを嫌ってかたちだけ事業を維持しているのだろう。これで得をするのは、草むしりで時給を稼げる近所のおばさんだけだ。
ところで、伊勢丹はこの大失敗を知っていながら、なぜわざわざこんな悪条件の場所に出店したのだろうか。いろいろ事情はあるのだろうが、明るい話からすると、泰達地区は完全なゴーストタウンというわけではない。天津市が面子にかけて人口を増やそうとしているからだ。
快適な天津市内からこんなところまで来るのはいったい誰だろうか。泰達のオフィスビルの入居者リストを見れば、“犠牲者”は一目瞭然だ。
泰達で暮らしているのは、天津市によって強制的に連れてこられた行政関係者とその家族だ。しかしそんな彼らも、買い物をする場所やまともなレストランひとつなければ天津市内に戻ってしまうだろう。だからこそ天津市政府は、市内の超一等地で利益を上げている伊勢丹をなんとしても出店させたかったのだ。
天津市政府と伊勢丹のあいだでどのような交渉が行なわれたのかは知らないが、中国で大きなビジネスをする伊勢丹にとって、これは事業継続のための苦渋の決断だったのではなかろうか。
鄧小平が領導した一大事業文化大革命が終わり改革・開放路線が定着した1984年、中国共産党天津市委員会が天津市の開発を決議、中国共産党中央政治局の倪志福と国務委員の谷牧により建設計画が批准された。さらに1986年8月には、中央軍事委員会主席・鄧小平が天津市市長と共に訪れ、「開発区大有希望(開発区には大いなる希望がある)」の書をしたため、後に碑文が建立された(Wikipedia)。このことからわかるように、天津経済技術開発区は鄧小平が領導し、国家と共産党の威信をかけた一大事業なのだ。
さらに2002年、同市出身の温家宝が首相(国務院総理)に就任すると天津の都市開発は加速する。2006年、天津市は「東洋のマンハッタン」を生み出すべく600億元(約1兆円)を投資し、新たなビジネス特区の建設に着手したのだ。
このビジネス特区は、駅でいうと泰達から2つ先の会展中心站の海側にあたる。実際に訪れてみると、こんな感じだ。
ご覧のように、ほとんどのビルが骨組みの状態で工事が止まっている。
いちばん驚いたのは下のビルだ。全体を黒のガラスで覆うはずだったのが、外装がほぼできた段階で工事が中止され、いまでは外壁が剥落しはじめている。まさに鬼城そのものだ。
この超巨大なゴーストタウンが生まれたいきさつは、ヘンリー・サンダースン、マイケル・フォーサイスの『チャイナズ・スーパーバンク』(原書房)で描かれている。
2003年、天津市は国家開発銀行(中国開銀)と、当時は中国で最大といわれた500億元(約8000億円)の不動産担保融資契約を結んだ。都市開発を行なったのち、15年間の土地使用権の売却収入で融資を返済するという契約で、中国開銀はリスクヘッジのため、万が一土地売却が不調だったときは天津市が予算措置を講じて返済する、という約束も取りつけた。すなわち、最後は市民の税金でツケを払うのだ。
天津市は当初、土地使用権の売却収入は年10%ずつ上昇すると見込んでいた。だが実際には、2004年の売却収入24億元に対して2006年には103億元と、2年間で4倍超になった。さらに驚くべきことに、この売却収入は2009年に732億元と、3年間で7倍に上昇したのだ。このとてつもない不動産バブルが、「東洋のマンハッタン」をつくるという野望に火をつけた。
2004年に天津市は融資平台を設立し、地下鉄などのインフラ整備を行なった。それを受けて中国全土だけでなく、華僑を中心に海外からも不動産ディベロッパーが大挙して参入し、商業施設や不動産施設など800億元以上を投資した。
この“超バブル”の背後に温家宝の威光があったことは間違いない。天津への不動産投資は、「国家が保証した儲け話」だったのだ。
天津市の当初の計画では、15万平方キロの敷地に100棟以上の高層ビルが林立することになっていた。本家のマンハッタン中心部が42平方キロで、ウォール街はその南端の一部だから、300年の歴史をかけて生まれたグローバル金融センターをわずか5年でつくろうとしたことになる。もっとも計画時点でこの「マンハッタン」に進出を予定している海外の金融機関は皆無で、四大国有商銀をはじめとする中国国内の大手銀行も本部を移す予定はなかった。そもそも天津市内には近代的な金融センターがあり、先行する北京や上海でも新たな開発が進んでいるのだ。
1989年のアメリカ映画『フィールド・オブ・ドリームス』(ケビン・コスナー主演)では、八百長事件に連座して球界を永久追放された伝説の大リーガー、シューレス・ジョーの魂を呼び戻すために、主人公はトウモロコシ畑を切り開いて野球場をつくる。彼を狂気とも思える行動に駆り立てたのは、“If you build it, he will come.”(それを造れば、彼が来る)という天からの言葉だった。
『チャイナズ・スーパーバンク』の著者たちは、この映画を引いて天津市の開発担当者の固い信念を説明する。「それ(巨大新都心)を作れば、彼ら(世界の大手金融機関)は来る」のだ――残念ながら、その奇跡が起きることはないだろうが。
ところで、下は浜海新区の区政府の建物だ。実はこの近くにも立派な建物があるのだが、「東洋のマンハッタン」計画でちゃっかりもうひとつつくったのだという。
だが建物が完成して2年ちかくたっているのに、いまだに移転が始まっていない。タクシー運転手の話では、後ろ盾だった温家宝の引退で乱開発への批判が厳しくなって、移転できなくなったのだという。
今回の「不動産バブルの旅」で感じたのだが、中国のひとたちはほんとうに地元の政治の裏事情に精通している。
中国五大都市の天津が実質破産状態かここで公正を期すために述べておくと、ビジネス特区の開発がすべて失敗しているわけではない。下は国際会展中心(コンベンションセンター)前で、平日にもかかわらずたくさんの屋台で賑わっている。
なにごとかと思って近づくと、なんとコスプレの一大イベントが開催されていた。日本のアニメを中心にさまざまなコスプレ姿の天津の若者たちが集結し、イベントのいちばんの目玉はボーカロイド、初音ミクの音楽ショーだった。
会展中心站にはイオンの大きな店舗が併設されているが、イベントのせいもあってかなりの賑わいだった。さらに驚いたのは、駅の改札に向かおうとすると不動産販売員から次々と声をかけられたことだ。
会展中心站の周辺にはサッカー場や体育館、ショッピングセンターやシネコン(複合映画館)などがつくられ、ビジネス新区になかではもっとも開発が進んでいる。そのため、ある程度値引きすれば興味を示す顧客もいるのだ。
逆にいうと、高層アパートが建ち並ぶそれ以外の鬼城は、ディベロッパーが販売努力すら放棄してしまった不動産開発の成れの果て、ということになる。「売れそうだ」とわかれば、不動産開発会社はこれほどまでに必死になるのかと思うと、逆に寒々としたものを感じた。
報道によれば、ビジネス特区のプロジェクトはわずか2棟が完成しただけで、2年間の建設ラッシュのあとにすべて止まってしまった。天津市の直接負債は同市の年間財政収入(2013年)の1.28倍に上る2246億元(約3.7兆円)に上り、融資平台などを使って調達した資金を加えるとその総額は5兆元(約80兆円)を超えるという。中国国務院の会議で、汪洋副首相が「天津市は実質上破産している」と発言したとも報じられた。
天津は北京、上海、重慶、広州と並ぶ国家中心都市で、都市別のGDPでは全国5位だ。この大都市が財政破綻するようなことがあればその影響は甚大で、市政府だけでなく共産党や温家宝の責任も問題とされるだろう。
今年4月19日、天津TEDA(経済技術開発区)投資信託公司の前会長で、天津市政治協商委員の劉恵文が自宅で自殺した。地元では汚職の噂とともに、巨大な鬼城をつくった責任を問われたのではないか、といわれている。
<執筆・ 橘 玲(たちばな あきら)>
作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(以上ダイヤモンド社)などがある。
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