チュニジア、エジプト、リビアと革命が続く中東。今でも毎日のように、テロや紛争のニュース が絶えません。
イスラエルという国は世界に離散していたユダヤ人が帰還して安全に暮らすために、1948年に建設された国家です。では、なぜユダヤ人はイスラエルの地を追われて1800年以上も経過してから、国家を建設することになったのでしょうか?
今回と次回の2回に分けて、ユダヤ人が国家を建設しようとする経緯、シオニズムと呼ばれる国家建設運動が生まれるまでの背景と、シオニズムが生まれてから建国までの歴史的経緯について説明してみたいと思います。
ユダヤ人とは誰か?ユダヤ人が国家を失ったのは西暦70年で、ローマ帝国によって滅ぼされました。135年には、ローマ帝国に対して反乱を企てたとして、ユダヤ人はエルサレムから追放されてしまいます。つまり、135年から1948年までユダヤの人々は国家建設をすることができず、各国に離散して住んでいたことになります。
では、そもそもユダヤ人とは、いったいどのような人々なのでしょうか? イスラエルの帰還法(イスラエルが国籍を認可するための法律)によれば「ユダヤ人を母に持つ者、ユダヤ教を信奉した者、もしくは改宗を認められた者」とされています。けれども、一般的には、父がユダヤ人で母が他民族の場合でも、子どもはユダヤ人として扱われることが多いようです。
ユダヤ人の定義となっているユダヤ教とは、ヤハウェを神とする一神教です。キリスト教、イスラム教という他の三大宗教と同様に、旧約聖書を聖典とみなしていますが、独自のタルムードという聖典もあります。キリスト教では牧師や神父が教会を取り仕切っているように、ユダヤ教ではラビとよばれる聖職者が、シナゴーグ(礼拝施設)を取りしきっています。
特徴としては、ユダヤの民だけが唯一神に選ばれた民であるという選民思想を有し、独自の暦や安息日(休日)、割礼といった固有の行動規範があります。他の宗教の者が改宗する場合は、この行動規範を尊守したうえで、ラビの許可が必要となるため、かなり困難だといわれています。
こうしたユダヤ人と呼ばれる人々は2010年には、世界全体で1358 万人、そのうちの570.4万人(約42%)がイスラエルに居住しています。次に多いのはアメリカの527.5万人(39%)、フランス48.4万人(4%)、カナダ37.5万人(3%)となっています。
近代に至るまでのユダヤ人迫害の3つのパターンユダヤと聞くと、「ホロコースト」とか「アンネの日記」を思い起こされる方が多いかと思いますが、実はユダヤ人迫害の歴史はもっと根深いのです。ユダヤ教徒であるが故に迫害されてきたのですが、近代に至るまでの迫害には大きく分けて3つのパターン、1)宗教的偏見に基づくもの、2)キリスト教の高揚、3)職業的差別や貧困から生じた迫害 がみられます。
1)宗教的偏見に基づく迫害
中世で多いのは、宗教的な偏見に基づいた迫害です。宗教が最も重要な規範であった中世のキリスト教徒の考え方の根底には、「神の子イエスを殺したのはユダヤ人であり、ユダヤ人はみな敵だ!」という考えが根強くありました。そのために、キリスト教徒の少年が変死体で発見されると、「ユダヤ人がキリスト教徒を誘拐し、その生き血を儀式に用いた」として、ユダヤ人に対する虐殺や迫害が始まるのでした。
これは迫害の典型的なパターンで、イギリスやドイツ、その他の国でもみられ、また時代が変わっても何度も発生しています。さらに、このパターンが変容した例としては、14世紀にペストが流行した際にも「ユダヤ人が毒を井戸に投げ込んだせいだ!」としてユダヤ人虐殺につながりました。その結果、13世紀にはすでにドイツでユダヤ人は教会から離れた地域に隔離され、塀で覆うユダヤ人地区(ゲットー)が作られていましたが(夕方になると門が閉められ外には出られない仕組み)、ペストによりヨーロッパ各地でゲットーが建設されるようになりました。
2)キリスト教の高揚による迫害
つぎにキリスト教の高揚から生じる迫害についてですが、これは十字軍やスペイン・ポルトガルなどでのレコンキスタ(国土回復運動)、宗教改革などの際に発生しています。十字軍というと、キリスト教とイスラム教の戦いというイメージが強いのですが、実はキリスト教徒たちはイスラム教徒だけではなく、ユダヤ教徒に対しても戦いを挑んでいます。つまり、彼らはイスラムの地にたどりつく前に、すでにユダヤ人を虐殺しながら進軍していったのです。
また、スペイン・ポルトガルのレコンキスタで、キリスト教徒はイスラム教徒をイベリア半島から排除する過程で、イスラム教徒と共存していたユダヤ人もまた排除されていきました。13世紀になると、改宗するか移住するかのどちらかの選択を強いられたために、多くのユダヤ人がキリスト教徒に改宗したふりをした「隠れユダヤ教徒」となっていたといわれています。
「隠れユダヤ教徒」を探し出すために、魔女狩りのような異端訊問が行なわれ、ユダヤ教徒と判断されたものは死刑、財産は没収されました。裕福な者の中には、実際にはユダヤ教徒ではないにもかかわらず、財産の没収をもくろまれ、ユダヤ教徒として処刑されていたそうです。
3)職業的差別や貧困から生じた迫害
職業的差別から生じた迫害とは、中世においては、ユダヤ教徒には土地の保有や公職に就くこと、職業別組合であるギルドに入ることが禁じられていました。つまり、キリスト教徒でなければ、農民や公務員、手工業者や商人にもなることも不可能だったのです。
そのため、ユダヤ人はキリスト教徒に禁じられていた高利貸しなどの金融業(キリスト教徒同士の間での利息を取ることは禁じられていた)や徴税人、医師、芸人、ギルドのない手工業(ダイヤモンドの研磨)や商業(行商人)などの限られた職業に従事するほかありませんでした。結果的に「お金」に直接かかわりをもつ職業が多く、ユダヤ人の中から富を成す者が出現すると、その富がねたまれ、また迫害の対象となってしまうのでした。
フランス革命によってユダヤ人に与えられた市民権このようにユダヤの歴史は「迫害」の歴史となっていますが、近代になるとようやくユダヤ人にも市民権が与えられるようになります。
その後のナポレオンの遠征によって、各地のゲットーが解放され、職業選択の自由が与えられるようになりました。この解放によって、西欧のユダヤ人は急激に同化が促進されたといわれています。けれども、ナポレオン失脚後は再度、いろいろな制限が課せられるようになり、その結果、西欧のユダヤ人のアメリカへの移住が増加しました。
一方、東欧やロシアのゲットーは解放されることはなく、同化も進みませんでした。彼らはゲットーの中で、ドイツ方言の一つであるイディッシュ語(ドイツ語にヘブライ語とスラブ語の単語が交った言語)を話し、ユダヤ教の伝統的な宗教規範に従った生活を続けていました。
ユダヤ人に人権が認められたと聞くと、その後はユダヤ人に対する差別や迫害が減少していったのだろうと思われるでしょうが、実際はそうではありませんでした。近代国民国家(一民族一国家の原則)の形成に必要となる民族主義が高揚すると、ユダヤ人はその中に入ろうとしても入れなくなっていくのです。
中世の場合、ユダヤ人にとって「改宗」(見せかけの改宗も含め)という最終手段がありましたが、近代の場合、とくに19世紀末から社会進化論と人種論が流行したために、ユダヤ人は宗教集団としてではなく、「人種」として理解されるようになったのです。つまり、ユダヤ人はヘブライ語(セム語)を話す、セム語族の「ユダヤ人」であるのに対して、ユダヤ人以外の西欧人は、インド・アーリア語を話す「アーリア人」であると理解されたのです。
こうなると「ユダヤ人」は改宗しても何をしても、「ユダヤ人」でしかないという結論が導かれてしまいます。こうしてユダヤ人に対する差別は20世紀になっても継続し、その究極の形として、ナチス・ドイツのホロコーストへと発展していくのです。
東欧およびロシア地域のユダヤ人の場合、ホロコースト以前に「ポグロム(ロシア語で破壊・破滅の意味)」と呼ばれるユダヤ人虐殺事件が各地で発生していました。そもそも、東欧およびロシアにはかなりの数のユダヤ人が存在していました。なぜなら、1264年からポーランドでは、カリシュ法令によってユダヤ人の居住権が認められていたためです。そのため、ポーランドではナチス・ドイツに占領されるまで、ユダヤ人のゲットーは存在していなかったのです。
この比較的良好な環境は1795年のポーランド第三次分割まで続いていました。ポーランド分割により、庇護を失ったユダヤ人たちは、ハプスブルグ家に対して保護をもとめたのでした。これがポーランド(分割されたのちはウクライナとなる)の人々には裏切りと映ってしまったのです。そのため、社会不安が高まるたびにユダヤ人は迫害、殺害され、1819年、1821年、1881~84年とポグロムが、東欧およびロシア地域の各地で発生することとなります。
さらに、帝政ロシアでは社会的不安をあえてユダヤ人に反感が向かうよう、政府がユダヤ排斥運動を助長したといわれています。1903~1906年にも大規模なポグロムが発生し、ロシアからアメリカへの大量の移民が生まれました。
東欧・ロシアのポグロムが生んだものは移民だけではありませんでした。ロシア革命をも生んだのだと主張する人もいます。
しかし、イスラエル建国にとって重要なのは、近代においてユダヤに対する迫害が激化した結果、シオニズムとよばれる思想が生まれたことです。シオニズムとはイスラエルの地(パレスチナ)に帰還してユダヤ人の民族国家を建設しよう、もしくはユダヤ教やユダヤ文化を再興しようとすることを意味しています。
シオニズムの発端は、ポグロムを体験したオデッサ(黒海沿岸の都市)の医師であるレオン・ピンスケルが、ユダヤ人は自らの国家を形成すべきだと主張して『自力解放』という書物をドイツ語で出版したことにあります。その後、1884年からロシアのユダヤ人学生たちが主体となって、パレスチナへ帰還して農業を行なおうとする運動(ビルー運動)がおこりました。
1914年までに6万人前後の人々がパレスチナに移住をはじめ、これが第一期のユダヤ人の移住であったといわれています。このようにシオニズムは迫害の激しかった東欧・ロシアにおいて誕生したのです。
一方、西欧ではフランスでのユダヤ人の冤罪事件であるドレフェス事件を契機に、ハンガリー出身のテオドール・ヘルツルが国家建設構想を描いた『ユダヤ国家』を出版し、シオニズムは拡大・強化されていきました。ヘルツルは1897年に世界シオニスト機構を設立し、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開催しました。彼はイスラエルの地(パレスチナ)が当時、オスマン帝国の支配下にあったために、オスマン帝国のスルタンと交渉し、ユダヤ国家建設に支援を求めましたが、これは失敗に終わりました。
シオニズム運動が生まれるまでの経緯はここまで。次回は、シオニズムが生まれてから建国までの経緯を説明します。
(文:岩永尚子)