世はお笑いブームまっさかり。若手芸人主体のお笑いライブも数多く開催されているが、その中に一風変わった人物がいる。
フロックコートを着こなし、姿勢もよく、発声もいい。他のお笑い芸人たちとはちょっと違った雰囲気だ。

彼が披露するネタとは……まず、某国民的長寿アニメの強烈なパロディが上映される。ストーリーの詳細は危険すぎてとても書けないが、父親が薬物中毒だったり、長女が「クワックワッ」としか言わなかったり、飼い猫が小池朝雄だったりするのだから内容は察してほしい。上映されるアニメの横で、物真似を交えながら話を進めるのが彼である。アニメも自作だというのだから驚きだ。強烈な毒に見舞われて場内は爆笑、ネタが終わるといつも客席にどよめきが残るほどだ。

彼の名前は坂本頼光(らいこう)。お笑い芸人ではない。本職は活動弁士だ。

活動弁士とは、戦前の無声映画を上映している横で語りを付ける人物のこと。説明だけでなく、すべてのセリフを一人で演じきる。
映画の歴史について解説することも多い。

しかし、その存在は知っていても実際には見たことがない人がほとんどだろう。なにせ、プロの活動弁士は現在日本にたった10数人しかいない。そんな中、若手のエースと目されているのが、この坂本頼光である。時代劇もチャップリンもこなし、08年には東京国際映画祭の提携企画として1500人の観衆を前に大作『雄呂血』(おろち)の活弁を行なった。1月にはアメリカの大学に招かれて現地で活弁を披露し、2月にはニューヨークでの公演も。本業で活躍しながら自主アニメ活弁でお笑いライブに殴りこみをかけ続ける坂本頼光とは一体何者なのか? ここからは本人の言葉とともに紹介していきたい。

弱冠30歳の坂本が活動弁士の世界と出会ったのは中学生の頃。幼少の頃から水木しげるフリークで時代劇映画マニアだった彼が、学校の映画会でこの世界の第一人者、澤登翠(さわと みどり)の活弁を見たのがきっかけだった。時はまさにコギャルにコムロな90年代半ば。「だからまわりと話が合うわけがない。高校も中退して業界入りを志願したのですが、当時、活動弁士は日本に2、3人しかおらず、その人数だけいれば間に合う状況でした。
だから仕事にしても食えないからやめなさい、と断られてしまったんです。でも、諦められずにバイトをしながら趣味的な発表会に出たりしていました」

転機は20歳の頃に訪れる。地元近くの鶯谷に「東京キネマ倶楽部」という無声映画を上映するレストランがオープン、坂本はオーディションを受け、晴れて活動弁士としてデビューする。山崎バニラはこのときの同期だ。また、その2年前にはAVなどで知られる怪優、山本竜二に弟子入りした。山本は坂本の憧れの俳優、嵐寛寿郎の実の甥でもある。「芸人なら堅気のバイトをしちゃいけない、とか本当に多くのことを学びました。活動弁士も人前で芸を見せるという意味じゃ芸人ですからね。竜二さんは芸人としての僕の師匠です」

坂本がアニメに取り組みはじめたのは20代の中頃。デザイン事務所を経営する知人から譲り受けたパソコンを使って自己流で作りはじめた。もともと絵は水木しげるへの弟子入りを考えたほど好きだったが、苦労の末に上達したアニメの技術は『鷹の爪団』シリーズで知られるFROGMANから声がかかるほどに。

「アニメ作りはだいたい10分程度の作品で3カ月近くかかります。
どうしても凝ってしまうんですよ。今後も無声映画とアニメは両方やっていきたい。贅沢をいえば、テレビにも出たいし、北島三郎さんの公演にも案内役とかで出たいですよ。僕はいろいろやっていないと精神のバランスが取れないんです。ちょっと視点の違うアニメも作りたいですし。今、漫画家の上野顕太郎さんと新作を作っています。60分ぐらいの大作になりそうですが、平成のうちになんとか完成させたいですね(笑)。海外での公演が今後もあるとしたら、オール英語で説明できるようになりたいし……やりたいことが多すぎるんです」

多方面で活躍する坂本だが、活動弁士の世界を引っ張る存在になっていくのだろうか?

「いや、僕はマイペースだし、活弁でもダブルスタンダードの邪道だからそういう存在にはなれませんよ。それに最近、わかったんです。活弁は、あくまで好きなことの中の一つ。もちろん、お客様に喜んでもらえるよう頑張ろうとは思っていますけれど、絵を描いたり変な話を考えたりするのも楽しくてねぇ。最終目標は、年をとってからも相変わらず正体不明之助で、老若男女に“どうやって食べてきたの? どうやって生きてきたの? なんで無事なの?”と気味悪がられるような爺さんになりたいなあ」

……やっぱり坂本頼光は活動弁士界の異端児でした。


「あはあは。異端扱いは僕にとって、ちょうどいい温度の温泉なんです」
(大山くまお)
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