明治から大正にかけて、首都防衛のために東京湾へ3つの海上要塞が建設された。
しかし、この東京第二海堡を観光利用しようという動きがあり、国土交通省や神奈川県横須賀市などが、2019年に向けて上陸ツアーの開始を決定。事業社も決定し、来年からの本格導入に先駆けたトライアルの上陸ツアーが8月から試験的に実施されることになった。
これはぜひ上陸するしかない。そう思ったのだが、2018年は台風や悪天候が続き、第二海堡へのツアー就航率は4割という狭き門になっていた。
2度の欠航を経験し、2018年9月27日、ようやく第二海堡へと足を踏み入れることに成功した。
出向は横須賀、三笠桟橋から
今回トライアルツアーの事業者として登録された旅行会社のひとつが、クラブツーリズムだ。第二海堡へ上陸するツアーはバスツアー(新宿発)と、現地集合型のツアーがある。どちらも出航は横須賀市の三笠桟橋から。
まずは無人島・猿島を見学し、それから第二海堡へと向かうというものだ。
三笠桟橋から約10分の船旅でアクセスできる猿島。この猿島から裸眼で見ることのできる約6キロほどの距離に、第二海堡(千葉県)は位置している。
台風も近づくなかだったが海面は荒れていなかったので上陸できた。しかしお天気はあいにくの雨模様。第二海堡では傘の使用が禁じられているため、ツアー参加者は全員合羽を着用しての散策になる。
「東の軍艦島」とも呼ばれる第二海堡
第二海堡は1881年(明治14年)から40年かけ、首都防衛のために造成された。重機やクレーンがなかった時代、手作業で石を切り出して小型の漁船サイズの船で運び、海中に沈めて作った人工島だ。総工費791,647円(現在の相場で約65億円)、1889年(明治22年)~1914年(大正3年)まで25年という歳月を費やし、495,855人もの職工人夫が関わったとされている。
現在は国が管理する公的施設で、面積は約4万1千平方メートル。関東大震災で廃墟となってしまったが、長崎県の端島(通称:軍艦島)と並んで、「東の軍艦島」とも呼ばれる。
あちこちにひび割れも見受けられ、時間の流れや風化を感じることができた。
第二海堡の建設には富津の漁師が従事し、関東大震災でも崩壊しなかった桟橋付近にはダイヤ型の間知石(けんちいし)が積まれている。
現在、第三海堡はとり壊されてしまったため、東京湾に現存する海堡は2つだけだ。
老朽化で足元など崩落の危険性がある。上陸ツアーに参加するためには誓約書も提出しなければならない。当然服装も動きやすいものと指定があるし、島での自由行動は禁止されていてガイドさんが付いての団体行動になる。集団を離れたりすると「お客さん、危ないので離れないでください」と呼び戻されてしまう。
島の北側にはイギリス積みという積み方をされたレンガ造りの掩蔽豪(えんぺいごう)がある。
島のあちこちに見受けられるレンガは、「焼きすぎレンガ」という通常よりも吸水率の低いレンガで、テレビ番組でTOKIOがこのレンガを探しに第二海堡へ上陸したことを覚えている方もいるかもしれない。
この第二海堡に使われている焼きすぎレンガには、よく見ると約2センチほどの桜の印が押されている。これは西南戦争の捕虜を収容した小菅収容所で囚人が作ったレンガだということだ。
こちらは15センチカノン砲があった場所になる。
こちらの灯台は海上保安庁が管理している。
第二海堡のシンボル的な建造物。防空指揮所だったといわれている。
この棟の前で松田優作の「蘇る金狼」が撮影された。第二海堡は他にも「宇宙刑事ギャバン」や「アクマイザー3」など特撮番組の撮影にも使用されていた。
よく見ると、ぼんやりと第一海堡(上陸禁止)の姿も見ることができる。さらにその向こうは千葉県だ。
第二海堡にはとにかくバッタが多かった。こんな海の真ん中までどうやってたどりつくのかとも思ったが、猿島からは6キロ程度しか離れていないということだったので、飛んで渡れる距離なのかもしれない。カラスやトンビもいて、生き物たちは人に邪魔されず元気に暮らしているようだった。
島内には太陽光パネルが立ち並んでいて、近代的な姿も見ることができる。
今後は2019年の定期ツアーに向け、ツアー実施会社ごとに試験的な上陸ツアーが行われていく。今回同行したクラブツーリズムのトライアルツアーは11月まで予定されている。2019年にはどんな形で上陸できるようになるのか、詳細は現段階では決まっていないそうだ。
(すがたもえ子)