そうだ、地下行こう。
思いついたので、行ってきた。
私はどういうわけか地下の施設に潜るのが好きで、年に何回か訪れないと、欲求不満になってしまうのだ。
今回行ってきたのは栃木県宇都宮市大谷町にある、大谷資料館だ。
フランク・ロイド・ライトが1922年に設計した旧帝国ホテルに使用されるなど、建築資材として知られる大谷石(凝灰岩)は、大谷町で産出される。その採掘場跡が、資料館として公開されているのである。冒頭の写真はその採掘場跡でとったものだ。2万平方メートルに及ぶ巨大空間で、先の戦争中に中島飛行機の地下工場として使用されていたことは有名だ。年間を通じて温度が一定であることから、戦後は古米などの穀物の貯蔵施設として使われた実績もある。映画撮影や音楽会、結婚式会場といった民間利用の例も豊富で、地下施設の転用例としては、とても成功している場所である。思うに、その荘厳な雰囲気が多くの人を魅了するのである(気になる方は、昨年出た小泉隆の写真集『大谷採掘場 不思議な地下空間』を参照のこと。2011年2月現在、採掘場内でも小泉の作品は展示されている)。
さて、大谷の地形で興味を惹くのは地下だけではない。周辺の山も、この写真のように奇妙な形をしたものが多いのである。
大谷では、坑道を掘って石を採るようになる前は、露天掘りが主流だった。山肌から横に掘り進めたり、頂上から下へ向けて穴を掘ったりした結果、奇妙な形の虫食い山が残ったわけである。この地形を利用した、巨大な観音像も建立されている。

前置きが長くなったが、今回紹介したいのは、西牟田靖のルポルタージュ本『ニッポンの穴紀行』だ。私は題名から地下に関する本かと思いこんで手にとったのだが、少し違った。対象はもう少し広い。
「はじめに」で著者は、どういう場所を「ニッポンの穴」として探訪していったのか、明かしている。
――高度成長や戦争といった、その時代の国民が追及した大きな目的を達成するために利用しつくされ、その後置き去りにされ誰からも顧みられることがなくなってしまった暗がりのような「穴」、知られてはいないが紹介する価値のある「穴」場、人々の心の喪失感があらわれている心の「穴」、個々の時代が刻まれ、つながっている絵巻のような「穴」……。
どんな施設も、最初は確固とした意味を持って創設されるものだ。だが、いつかはその役目を追え、歴史の中に置き去りにされる時がやってくる。そのとき、施設のあった場所にはぽっかりと「穴」が空くことになるのだろう。山全体が空洞となった、大谷石のあの鉱山のように。
本書には、そうした「ニッポンの穴」が12箇所紹介されている。

中でも最も有名なのは、2009年4月に上陸が解禁され、多くの観光客が訪れるようになった長崎県端島、通称〈軍艦島〉だろう(島全体が戦艦『土佐』に似ている、と新聞に報道されたことが名前の由来)。三菱財閥が島全体を買い取り、炭鉱町として開発したのが交流の起源で、最盛期の昭和30年代には7ヘクタールにも満たない面積に5,000人以上が居住していた。世界にも例がないほどの超人口密度地帯である。労働者に住居を与えるため、1921(大正10)年には、日本で初の鉄筋コンクリート集合住宅も建設された。しかし、戦後には石炭から石油へ主要エネルギーが移行したため、鉱山は次第に衰退。1964(昭和39年)に大規模なガス爆発事故があったことで一挙に従業員数は減少し、1974年には完全に閉山された(伊藤千行・写真/阿久井喜孝・文『軍艦島 海上産業都市に住む』岩波書店)。
西牟田が軍艦島に上陸したのは、この軍艦島が再び上陸者を迎えるようになった2009年の前年だ。企業の冷徹な判断により鉱山は廃止され、島は眠りについた。その中断によって、ひとびとの暮らしは突然中断され、時間の中にぽっかりと穴が空いた(すぐに帰島できると思い、家財道具をそのままにして住居を離れた人も多かったのだ)。その空白を、西牟田は感じ取って文章を書いている。

こうした棄てられた場所の「穴」に属するものが、第三章の「新内隋道と狩勝隋道」や第六章で紹介される「人形峠夜次南第2号坑」だろう。
後者は、かつて日本にも存在したウラニウム発掘ブームの中で性急な開発が行われ、装備が貧弱だったことから、作業員に多くの健康被害者を出した場所だ。表紙に使われている写真は、第五章で紹介されている「滋賀会館地下通路」を撮影したものである。不勉強にして私はこの施設のことを知らなかったのだが、滋賀県大津市に存在する滋賀会館は、隣接する県庁と地下通路で連結されているのだそうだ。この滋賀会館も、2010年3月をもって文化施設としての役割を終え、今は眠りに就く前の小休止段階にある。
変り種は、第八章で紹介されている「日韓トンネル」だ。佐賀県唐津市から海峡を挟んで200kmの彼方にある釜山へ向け、海底トンネルを掘ろうという計画があるのだという。戦前ではなく、現在進行形の話だ。しかも計画の発起人は、新興宗教団体である統一教会なのである。発端は1981年に統一教会の創始者である文鮮明が「国際ハイウェイ構想」を提唱したことである。「日本、朝鮮半島、中国をトンネルや鉄橋で連結し、ゆくゆくは全世界で自由圏ハイウェイを建設しようという」壮大な構想は、1980年代末までは保守系政治団体の後援を得た、ある程度現実性のあるものだった。それが2000年代にはどのような「穴」に転じていたかは、本書を読んで確認してもらいたい。ちなみに著者が見学したトンネルの入口にあたる工事現場は、唐津市名護屋にある。
かつて豊臣秀吉が朝鮮半島へ軍を送ったときに城を築き、拠点とした場所だ。

こうした具合にニッポンの「穴」が数々紹介されている。すべてが放棄された施設というわけではなく、第四章で紹介されている「国立国会図書館」、第七章でとりあげられた「黒部ダム」のように、重要な役割を担って運用され続けている、現役の施設もある。そうした場所を紹介するとき西牟田は、創設時に人々が傾けたであろう情熱に着目し、ひとびとの営為の累積としてその施設があるのだということを改めて書き記している。黒部ダムの建設過程においては、地下トンネルの建設中に高熱の岩盤地帯に行き当たり、多くの作業員が死亡した。ダムと発電所が完成するまでに300人以上の死傷者を出しているのである(吉村昭の記録小説『高熱隧道』に詳しい)。一旦やり始めたことは、なにがあっても完遂しなければならないという情熱が、あまねく人の心に存在していた時代の産物だ。現在ではそこまでの熱気が起きる土木事業というのは、あまりないはずだ。

かつてこの国では、全国土で大規模な土木事業が推し進められていた。工事を疑問視する声はほとんど声にならず、国土は隅々に至るまで改造されていった。それが戦後の昭和という時代である。開発は是であった。
元号が平成と改まり、世紀をまたいだ現在とは、状況も、価値観もまったく異なっていたのである。黒部ダムの施設見学を終えた著者は、こう述懐している。

――親世代の生き様を振り返るたび、二つの相反する感情が渦巻いてくる。

物がなくて貧しいきつい時代に生まれなくて良かった、と安堵するとともに、希望に満ちて時代に若いころを過ごせてうらやましい、と嫉妬に近い感情を覚えてしまうのだ。
どちらが良い時代なのだろうか……。

思うに西牟田靖は、「ニッポンの穴」を取材しながら、現在の中に突然顔を出した過去と遭遇し続けていたのだろう。この地上で日々目にしている光景は、停滞しきったものだ。その中に昭和のぎらつく光景が覗けとしたら、西牟田ならずとも心をかき乱される。
ここで一つの提案だ。停滞した地上の日常を打破したくなったら、地下へ潜ってみよう。私が行った大谷地下採掘場跡なども1つの候補だが、小島健一『ニッポン地下観光ガイド』などの本を参考にして、いろいろ探してみてください(これは宣伝になってしまうが、私が写真家・内田英明氏の作品に解説を付した『トーキョー・アンダー』という本もあります)。

われわれの暮らしを守るために、目に見えないところで日々誰かが働き続け、日本の現在を形作るための努力をしている。
そういう現場を見ると、今の時代もそんなに「希望に満ちて」いないわけではない、と安心する気持ちになるはずだ。ちなみに、文中で紹介した黒部ダムは、毎年黒部ルート見学会を実施してトンネルに一般見学者を受け入れている。今年の募集は3月上旬に始まるはずだ。気になる人は関西電力北陸支社のホームページを注意しておこう。また首都高速道路株式会社も、各種の見学会を適宜実施している。公式サイトのこのへんを日々チェックしておくのが吉である。(杉江松恋)
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