「フレンドリー」。
一般的には「誰とでも仲良くなれるフレンドリーな人が羨ましい」とか「フレンドリーになりたい」とか言う人が多いし、「フレンドリーなスタッフが~」云々と、宣伝文句に使われることだってある。


ところが、この「フレンドリー」が苦手、という人もいる。

「毎日、道端に立ってるフレンドリーなおばさんが、前を通るたびに何度も元気に声をかけてきて、ちょっと苦痛……」
こんな話を知人から聞いたとき、ハッとした。
挨拶は良いことだし、大切なこと。自分自身、同じマンションの住人に挨拶を無視されたときなど、「無視かよ!!」と心の中で毒づいてしまう。
でも、「朝の『おはようございます』は良いけど、1日に何度も、前を通るたびに言われると、どう返したら良いかわからなくて困る」と聞くと、それもそうかという気はしてくる。

日本人の場合は、「大きな声で挨拶」が苦手であれば、「目をあわせ、やや微笑んで会釈」、さらに目をあわせるのも苦手であれば「会釈」だけでも挨拶として十分成立する。それだけに、「会釈すらしない人」はやはり失礼だと思うが、一方で、良かれと思った行為が、「フレンドリーの押しつけ」になっていないかと、不安になることもある。

実際、周囲の友人・知人にも「フレンドリーな人が苦手」という人はいて、以下のようなコメントをくれた。

「友達は良いけど、タメ口で話すフレンドリーな店員さんは苦手」
「どうでもいいことに『へえ~』『うんうん!』とオーバーリアクションで言ったり、こっちが言ったことをそのまま繰り返して大袈裟に言うフレンドリーな友人が、ちょっと疲れる」
「仕事の出張の際、空いてる席があるのに、隣同士の席で予約してくれる人。さらに、気をつかって移動中ずっと話しかけてくる人は、 フレンドリーすぎて疲れます。逆に、席を横並びでなく、縦の列などで予約してくれる人は『気がきいてる』と嬉しくなる」
「仕事先から一緒に帰るのが面倒くさいので、『1本電話してから行くので、お先にどうぞ』と言うと、『いいですよ』とわざわざ待っていてくれる人がいる。いいのに……」
「外食時に、必ず『交換』して食べるフレンドリーな人。
大皿から取り分けるのは良いけど、大人がみんなで皿をまわして、交換し合うのは、みっともなく見える」
「『絶対に気が合うと思うから!』とか『大勢のほうが楽しいから!』などといって、自分の友達同士を会わせたり、どこにでも連れてくる人。フレンドリーなのは良いけど、結局、ちゃんと話ができなくなりがち」

「明るい」「元気」「フレンドリー」など、どれも良いことだけれど、かといって「○○すべき」「△△したほうが良い」などのルールで割り切れるものでもないのが、人間の感情と人間関係。

他人の温度に気づくデリカシーも必要なのかも、と反省する場面もあります。
(田幸和歌子)
編集部おすすめ