手塚治虫が締め切り破りの常習犯だったことは、いまや広く知られるところである。手塚の元チーフアシスタントである福元一義が2009年に刊行した『手塚先生、締め切り過ぎてます!』でも、その手のエピソードはたくさん紹介されており(くわしくは私が以前、「日経ビジネス・オンライン」に寄稿した書評を参照されたい)、まがりなりにも物書き稼業の身としては、背筋がゾクッとするような話が少なくなかった。
「週刊少年チャンピオン」に一昨年から今年にかけて掲載され、このたび単行本化された宮崎克(原作)と吉本浩二(マンガ)による『ブラック・ジャック創作秘話 ~手塚治虫の仕事場から~』もまた、描かれる時代こそ1972年から1980年まで(タイトルどおり『ブラック・ジャック』の連載前後)に限定されているものの、『手塚先生~』とほぼ同趣旨の内容となっている(実際、重複しているエピソードもちらほらある)。とはいえ、絵が加わっているだけにさすがに迫力が違う。また、吉本の絵が手塚マンガとはかけ離れたタッチであることがかえって功を奏し、マンガやアニメの制作現場の壮絶さや、手塚の人間臭さを引き立てているように思った。
私がとくに気に入った描写は、アシスタントだった三浦みつるが、マンガ家としてのデビューが決まって手塚プロダクションをやめるにあたり、手塚に目覚まし時計を贈ったときのやりとりである。このとき三浦がうっかり「スヌーズ」という新機能があると口にしたのが運のつき、手塚から「スヌーズってどういうことですか?」「最近の目覚まし時計にはみんなついてるんですか!?」などと質問攻めにあわされる。もちろんこの話は、手塚の旺盛な好奇心を示すエピソードなのだけれども、1ページ丸まるアップで描かれた手塚の顔つきはどう見ても危ないオッサンである。
話のつくり方にしても、『手塚先生~』がひとりの元スタッフによる手記であるのに対し、『ブラック・ジャック創作秘話』は、複数の関係者に取材し、そこでとった証言を再構成しているだけに、たとえ同じ話でもまた違った味わいがある。とりわけそれを感じたのは、「第5話・夜明け前」という一編だ。秋田県の寺の長男に生まれた青年にスポットを当てたこのエピソードでは、青年が僧侶になるためいったんは修行に出たものの、少年期より抱いていたマンガへの情熱を断ち切れず、手塚プロダクションのアシスタントになる。だが、それから1年後、彼の郷里の寺が全焼してしまう。その後、青年はどうしたのか。
『手塚先生~』では、青年はしばらく帰郷せずにいたものの、檀家の代表から「住職になる気がないなら、お寺を再建しない」との通達があったのを機に、手塚が彼に帰省を勧め、飛行機のチケットも手配してくれた……ということが淡々とつづられている。いっぽう、『ブラック・ジャック創作秘話』では、青年は火事の報せを受けるとすぐさま帰郷することになるのだが、そのさい手塚はこれを持って空港に行きなさいと、彼にあるものを渡す。それが予想以上の威力を発揮したおかげで青年は無事に帰郷でき、実家を継ぐことになったのだった。本人の証言をとっているうえ、物語としても『創作秘話』のほうが、例の“小道具”の効果もあってよりドラマチックなものとなっている。
『ブラック・ジャック創作秘話』ではこのほか、日本テレビの24時間テレビで放映された長編アニメ『100万年地球の旅 バンダーブック』の制作時の大騒動や、『ブラック・ジャック』の原稿を持ってアメリカ旅行に出かけてしまった手塚が、インターネットはもちろんファクシミリもないなか、どのような手段でスタッフに指示を与え、原稿を完成させたのか、その顛末が過去のさまざまなエピソード(なかには永井豪と赤塚不二夫に関する話まで出てくる)を盛りこみながら描かれている。いずれの局面でも、編集者やスタッフたちはあきらかにひどい目にあわされているのだが、いまではみんないい思い出になっているのは、やはり手塚の人徳だろう。事実、遅れに遅れた原稿を手塚から受け取るとき、「来週はがんばります」という言葉とともにニッコリと笑顔を見せられると、許さざるをえなかったという編集者の証言もある。
ところで、このマンガの影の主役ともいえるのが、当時の「週刊少年チャンピオン」編集長・壁村耐三である。彼こそは、アニメ制作会社・虫プロダクションの倒産や人気の凋落などで人生最大の危機に瀕していた手塚に新連載(これが『ブラック・ジャック』となる)を依頼し、起死回生へと導いた張本人だ。
部下だった編集者の話によれば、壁村は外出の際、上着の袖に手を通さず(その姿は作中のあちこちに登場する)、やたらとツバを吐き、電車の網棚の「少年マガジン」をぺラッとめくったかと思えばポイと捨てたりと、おおよそ編集長らしからぬ……というか、そのスジの人と思われてもしかたのない雰囲気をただよわせていたという。
そんな壁村だが、こんな一面もあった。それは、手塚が『ブラック・ジャック』の20ページ分の原稿を一度は完成させたにもかかわらず(この時点で締め切りはとっくにすぎていた)、すべて描きなおすから8時間待ってくれと言い出したときのこと。現場の担当編集者からその旨を伝えられた壁村は、「ふざけんなッ~~~~~!!」と怒鳴り散らしたかと思えば、すぐさま印刷所に電話を入れる。さすがにもう待てないから、今回は原稿を落とせと難色を示す印刷所側に対し、壁村は「手塚が描くと言ってるんだ!! だまって待ってろ!!」と一喝するのだった。内に秘めた作家への深い愛情。それはブラック・ジャックの、ピノコや患者たちに対するツンデレな態度をどこか髣髴とさせる。
えっ!? ひょっとしてブラック・ジャックのモデルって……いや、まさかねえ。(近藤正高)