私はうまいのである。澄んだ白湯をとるのが。
はい、もちろん逃避だ。みんなそういう癖を持っていると思う。忙しくなればなるほど関係ないことをやりたくなってしまう癖。料理なんて「作業」だから充実感もあって、いちばん有意義なんじゃないかな。だって美味いし! 原稿は一行も進まないけど!
そんな逃避癖を研究の域に高めてしまった男がいる。漫画家・吉田戦車だ。どこがどう研究なのかは以下の引用を読んでもらいたい。
――久しぶりに袋インスタントラーメンの自分ブームがやってきている。
「若いころはよく世話になったけど……」というやつで、カップ麺と合わせても、今は月に一度食べるか食べないか。
そんな程度だと、これは前に食べたことがあるけど、どうだったんだっけ? うまかったのか、それとも好みじゃなかったのか? ということを忘れがちであり、それをはっきりさせたいと思った。
いや、はっきりさせなくていいから。大人がこだわるべきことじゃないから!
――一日に一食、ときには二食、味を変えない程度に野菜を入れつつ、「麺は細すぎるが、悪くない」とか「いつまでものどの渇きがとれない」などとメモしていくのだ。
はい、完全に逃避行動です。ありがとうございます。
『逃避めし』は、吉田戦車が2008年から2010年にかけて連載した記事を再構成した単行本である。「奥州しょうゆ豚弁当」から「魚醤そば」に至るまで79の逃避めしが写真と吉田によるイラストつきでずらり並んでいる。一応材料の一覧は書いてあるが、細かい数量単位はなし。そのへんも逃避で作る料理っぽい。ちなみに上の文章は「その13 しじみタンメン」の項から引用した。インスタントラーメン研究に疲れた吉田は、一休みして「自分ラーメン」を作り始めるのである。逃避の逃避だよそれは。
本書に収録された「めし」のほとんどは、吉田が独身時代にかまえていた仕事部屋のキッチンで生み出されたものだ。おなかが空いたときに作ってがっちり食べるめしが多いが、「口寂しい」瞬間をやりすごすためにおやつのように食べるものもある。わかるなあ、その気持ち。
つきあっている男に作って食べさせるためとか可愛い飾りつけのお弁当を持たせてあげるためとかいった「誰かのため」の料理本が流行した時期があったが、これは極論すれば吉田戦車が自分自身が食うだけのために作っためしを他人に「ねえねえ、こんなの作ってみたよ」と自慢する本である。栄養学とかお作法とかいろいろなところが間違っているのかもしれないが、そのへんは気にしたら野暮というものだ。楽しいめしばかりなのだが、ああいいなあ、自分でも作ってみたいなあと思ったものを5つ選んでみた。
ベスト5形式で下位から発表します。だらららららららららら(ティンパニーの音)。
第5位 春キャベツと焼きハム
吉田いわく「キャベツが劉備玄徳であり、ハムは諸葛孔明だ」。つまりハムではなく千切りキャベツが主の料理ということである。久住昌之も『食い意地クン』で同じようなキャベツ偏愛について書いていた記憶がある。ある世代から上にはキャベツが異様に愛されているのである。
第4位 ナポリタンの具炒め
居酒屋でバイトをしていたころ「具のないナポリタンとライス」というまかないを出されたことがあり、そのリベンジのために作ったのだという。要するにソーセージと玉ねぎとピーマンとマッシュルームのケチャップ炒めである。もちろん余ったら翌日はそれでナポリタンを作る。
第3位『ひとまねこざる』のうどん
1950年代に翻訳が出た『ひとまねこざる』では、おさるのジョージがいたずらしながら食べるものが「うどん」と表記されていた(今は「すぱげってぃー」)。それを訳文に忠実に作るわけである。これに限らず、子供のころに読んだ本の料理は真似してみたいもの。私は『大どろぼうホッツェンプロッツ』に出てくるザワークラウト(キャベツの酢漬け)が子供のころ食べたくてしかたなかった。
第2位 肉みそまぜごはん
吉田家の「おふくろの味」なのだそうだ。常備菜として肉みそを作ったあとの鍋にはどうしても少量がへばりついてしまう。そこにごはんを放り込んでひっかきまわして即席まぜごはんを作るわけである。
第1位 肉まんの中身
コンビニエンスストアのレジで売っている肉まんの、あんの部分だけを再現するわけだ。読みながらそわそわしてきた。これはぜひ真似してみたい!
1980年代に流行した『セイシュンの食卓』の簡易レシピを思わせるものから、かなり手のこんだめしまで(いのしし汁なんかもある)内容はバラエティに富んでいる。読んでいて感じたのが、「吉田戦車って、食べもののことを考えることが好きなんだなあ」ということだった。食に関する名著のタイトルがごろごろ出てくるのである。池波正太郎『食卓のつぶやき』、辰巳浜子『料理歳時記』、『聞き書きふるさとの家庭料理 第4巻「そば、うどん」』、壇一雄『わが百味真髄』、下母澤寛『味覚極楽』、『豆腐百珍』などなど。読書の趣味もいいなあ、吉田戦車。
ちなみに、本書の中では同業者の伊藤理佐の名前が頻出するが、最初は「伊藤理佐先生」だったのが途中で「妻」になるのでびっくりさせられる。ご存知の方は多いと思うが、今ではご夫婦なのである。上に書いた独身時代の仕事部屋を吉田がひきはらったのも、子供が生まれてその世話を二人でする必要が出てきたためだ。仕事部屋がなくなり「好きな時間にテキトーな料理を作って腹を満たす」という逃避めしの生まれる土壌がなくなったから、という理由で連載は突然終了する。