長嶋有の『安全な妄想』を読んでいたら、こんな文章に出くわした。「映画秘宝」の編集者から来た仕事依頼メールの一節だという。


 ――「長嶋有さんと仕事したいと編集長にいったら『長嶋さんは引き受けてくれないだろう。それより「週刊文春」で漫画評を書いているブルボン小林という人が面白いから依頼してみろ』といわれました! 嘘のような本当の話」

あっはっは。
いや、何がおもしろいか判らない人もいると思うので説明するが、第121回芥川賞受賞作家にして第1回大江健三郎賞作家の長嶋有と『マンガホニャララ』の著者・ブルボン小林は同一人物なのである。ちなみに長嶋有は今年デビュー10周年を迎えるが、ブルボン小林は昨年が10周年だった(ということは上記の文章が載っている「ブルボン小林」というエッセイで知った)。ブルボン小林のほうが1年先輩なのである。やあ、先輩。おう、後輩。
1人のライターが複数のペンネームを使い分けることは別に珍しくない。ただ長嶋有作品を読んだことがない一部の人は芥川賞作家に別名で『ゲームホニャララ』なんて著書があると聞くと、ちょっと驚くだろうということだ。ちなみに俳人としての名前は長嶋肩甲だった(2008年まで。現在は長嶋有で作句)。
同じように筆名を使い分けていた作家に阿佐田哲也こと本名・色川武大がいる。
いや、色川には他にも短期間使った名前があるのだが、まあそれはいい。色川が別名・阿佐田哲也を使った理由の1つは、ギャンブル小説で生計を立てるということに対する含羞の念もあったはずだ。売文用の戯作名なのである。だって「朝だ徹夜」なんだもん。
そういう恥じらい、「ここんとこ調子に乗り過ぎないようにしないとヤバイかもオレ」と自分の立つべき位置を試行錯誤して決めるような態度を作家がとっているのを見ると私は微笑ましい気持ちになる。逆に「ヒャッホー。オレ作家様。オレオレ作家様がオレ、ウッヒャー」とはしゃいでいるのを見るとスカタンな気分になる。いや、いいんだけどさ。作品さえよければそれで。
エッセイにおける長嶋有は、そういう「作家としての自分」を投げ出すことにすごく熱心である。投げ出すというと「放棄している」みたいな意味にとられそうだが、そうではない。
無造作に放ったように見せてちゃんと帽子掛けに引っかかるようにボルサリーノを投げている感じというか。ちゃんと稽古をして放っているのがわかる無造作。吉本新喜劇じゃなくて日劇ミュージックホールの芝居。日劇観たことないけど。
「教養」という一篇は、作家としての自意識の問題だけで終始していて実に可笑しい。大江健三郎と長嶋が公開で対談をしたときの話は本書の白眉だろう。前述したとおり、長嶋は大江健三郎賞の第1回受賞者なのだ(どうでもいいけど直木賞は直木三十五賞と普通書かないけど、大江健三郎賞だけは大江賞と略して書くとしっくりこない)。しばらくは順調に進んでいた対談だが、大江がある言葉を口にしたことから波瀾が(長嶋の内部で)訪れる。

 ――「あなたはフローベールをご存じですか?」不意になにげなく放たれた大江さんの質問に、僕の喉は鳴った。きたな、と。何か質問がある気がしていたのだ。
 フローベールって、たしか『ボヴァリー夫人』を書いた人だよな。
ブルボンのお菓子じゃないよな。
「ボヴァリー夫人ですよね」返答する自分を想像してみる。
「ご名答!」(大江さんがそんな言い方をするわけない)
 客席も得心した様子だ。
(うむ、さすがだな)
(大江さんと対談するだけのことはあるな)
(まさに教養と教養のつばぜり合いだな)などと思うに違いない。
 ……だがそれはすべてフローベールがボヴァリー夫人の作者「だった」場合の話だ。もし間違っていたら?

きりがないのでこの辺でやめておくが(本当はもっと引用したい)、葛藤の様子が延々と書かれていて、読者をもじもじした気分にさせてくれる。こういう具合に「過度に自分というものを意識している長嶋有」という状態について書かれたエッセイが何篇も収録されているのである。「過剰長嶋有」にはだいたい「冷静長嶋有」が伴走していて(逆の場合もある)、カッコの中からフォローないしツッコミのいずれかを送ってくる。カッコを多用してしかもうるさくない文章を書くことにおいては、長嶋は当代の第一人者だ。
前述の大江との対談は「群像」2007年7月号に掲載された。「あらゆる意味で気を利かせて」編集部は長嶋と大江の間に生じたディスコミュニケーションの様子を削除してきた。長嶋はそれを自分で復活させる。


 ――間抜け(注・一人だけ)な長いやりとりを、赤ペンでわざわざゲラに書き込みながら、私は私が無知だということを知っている、という哲学者の言葉を思い出していた(誰の言葉かはやはりうろ覚えだったが)。

こういう感じ。カッコ内の補足が効果的に働いていることが判るでしょう。
この本には長嶋有に関して他にもいろいろなことが書かれている。「長嶋はお歳暮を(気に食わずに)送り返した男である」という噂について真相を明かした「蕃爽麗茶」、いい年をして某出版社と絶交してしまう話「絶交」、はずみで車を買いそうになる「カー」、餃子パーティがいかに嫌いかということなどを書いた「自炊考」、蟹が好きではないという「蟹」。
こう書いていくとちゃぶ台返しの星一徹みたいなイメージが湧いてしまうのだが、そういう風に長嶋有が放り投げられているのだから仕方ない。豪快さん長嶋有。自分の唇がいかに赤いかというところから唇のパーツモデルになることを夢見る「唇」、理想のコスチュームプレイについて書かれた「長嶋くん!?」などという妄想篇もあります。もやもやする長嶋有。これまでにジャパネットたかたについて書かれたもっとも優れた考察といっていい「愛しのジャパネット」もあります。ウォッチャー長嶋有。赤塚不二夫ファンとしては首がちぎれるほどにうなずかざるを得ない「芥川賞はズルしちゃいけないのだ!」だってある。
タリラリラーンのコニャニャチワ長嶋有。
こんなふうに長嶋有は本書の中でバラバラに解体されて、ページの上に散りばめられている。ふりかけご飯みたいなもので、全体像は見えないけどしっかり味がして美味しいわけである。
本を読み終え、あ、また長嶋有という人を捕まえそこなった、と思ったが後の祭りであった。サヨナラ長嶋有、またね長嶋有。(杉江松恋)
編集部おすすめ