ピチカートファイブ、あるいはその中心人物であった小西康陽という人は、ある時期のぼくにとってカルチャースターみたいな存在だった。たとえば90年代に小西がプッシュしていた市川崑監督の映画「黒い十人の女」がリバイバル上映されたときには、胸を高鳴らせながら渋谷の映画館まで出かけたものだ。
あるいは、やはり90年代に日本で初公開されたゴダールの「万事快調」という映画もまた、ぼくはピチカートの同タイトルの曲で知ったのだった。このほかピチカートには楽曲にとどまらずジャケットやPVにいたるまで、過去の作品や作家に対するオマージュが随所に見られる。その元ネタを探すのもファンの楽しみのひとつだった。

そんなピチカートファイブの初期の曲に「アクション・ペインティング」という一曲がある(アルバム「ピチカートマニア!」に収録)。「ブルーな恋ぶちまけて~♪」と歌われるこの曲のモチーフとなったアクション・ペインティングとは、1940年代のアメリカで生まれた絵画の技法、あるいはその技法を用いた一連の作品を指す。作品そのもの以上にそれを完成させるまでの過程、すなわちアクションに価値を置いたため、そう呼ばれるようになったのだ(命名者は批評家のローゼンバーグ)。百科事典などではその代表的な画家として、ジャクソン・ポロックの名があげられていることが多い。ポロックは、床に置いたキャンバス一面に塗料を撒き散らすという独特の技法――ポーリング(流しこみ)やドロッピング(滴らし)などと呼ばれる――による一連の作品で知られる。世界の美術の中心は、第二次世界大戦を境にヨーロッパからアメリカへと移るが、ポロックはまさに台頭するアメリカ美術の象徴だった。

そのポロックは1912年にアメリカ・ワイオミング州で生まれた。ちょうど来年が生誕100周年であることから現在、「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」が名古屋市の愛知県美術館にて開催中だ(来年1月22日まで)。ポロックの回顧展にはこれまでにも多くの美術館やキュレーターが挑戦してきたものの、国内外に点在する作品を集めることは困難を極め、なかなか実現しなかったという。
今回の展覧会はじつに日本では初めての回顧展となる。ちなみに、ぼくは地元愛知での開催を、ツイッターでの「愛知県美術館(試験運転中)」氏(@apmoa)と「館長」氏(@masa7878)のやりとり(まとめはこちら)で知った。このあとポロック展は東京国立近代美術館にも巡回するが(会期は2012年2月10日~5月6日を予定)、愛知での開催が先ということにちょっとした優越感を抱く(笑)。

ぼくがポロックの絵に出会ったのはわりと古い。小学生のとき、自宅にあった百科事典の「現代美術」の項目に載っていた図版で初めて知ったのだ。が、さすがによくわからなかった。高校生の頃には講談社の「現代美術」という全集を毎号本屋さんに届けてもらっていて、ウォーホルとかリキテンスタインとかラウシェンバーグとかウェッセルマンとか、いわゆるポップアートの作家にはハマったものの(とくにウェッセルマンのヌード作品は女性器がリアルに描かれていたりして、高校生には刺激が強かった)、同じシリーズに収録されたポロックに対してはそれほどでもなかった。でも、20代前半に、東京都現代美術館でのポンピドゥー・コレクション展か何かで初めてポロックの絵の実物を前にしたら、やっとそのすごさに気づいた。まず、画集などで観るより実物はかなり大きいことに驚いた記憶がある。画集などで観るポロックの作品は縮小されているから、いまひとつピンとこなかったのも無理はない。もっとも今回のポロック展のカタログでは、いくつかの作品が部分拡大で掲載されているのだが、それでも本物とは印象がどうも違う。これだけ印刷技術が進んでも、ポロックの絵の持つ魅力というか凄味はまだ十分に再現できていないような気がする。
ポロック展の会場をひととおり観て、そんなことをあらためて思った。

今回の展覧会では、アクション・ペインティング的作品だけでなく、それ以前の作品もたっぷり観られる。初期の作品には、ピカソのほかメキシコの壁画運動の中心的画家であるリベラなどの影響の色濃いものがあったりして、ポロックがオリジナルの画風に到達するまでの経緯が見てとれる。ポロックは、キャンバスを床に置いて描くという技法を、ネイティブアメリカンの砂絵にヒントを得て編み出したというが、すでに30歳前後には、色鉛筆にネイティブアメリカンのトーテムポールを思い起こさせるドローイングを描きこんでおり(後年「トーテム・ペンシル」と名づけられた)、かなり早くから彼らの芸術に関心を抱いていたようだ。

ポロックはまた、ピカソを目標としつつ、それを乗り越えようという思いを常に抱いていたという。「くそっ、あいつが全部やっちまった!」とピカソの画集を床に投げつけたというエピソードも残っているほどだ。そんなふうに先行する巨匠に対抗意識を燃やしながら試行錯誤を重ね、ついにポロックは1940年代に、前出のポーリングやドロッピングといった技法を見つけ出す。最初は、あらかじめ描いた抽象画の上から申し訳程度に塗料を流しこんでみるといった感じだったのが、だんだん大胆にこの技法を用いるようになる。それがピークを迎え、次々と傑作が生みだされるのは1950年前後。会場には当時のポロックがアトリエとして使っていた小屋も再現され、床の上に飛び散った塗料や足跡を実物大写真により確認することができる。

今回の回顧展における最大の目玉は《インディアンレッドの地の壁画》(1950年)だろう。縦183cm×横243.5cmのこの大きな絵の前に立つと(前方に椅子も置いてあるので、座りながら鑑賞することもできる)、色とりどりの線がいくえにも交差しながら奥行きを生み出していることがわかる。
実際のキャンバスの厚さよりも、ずっと深い空間が画面のなかにあるのではないかとすら思わせる。そう、ポロックの絵は、二次元でありながら立体的なのだ。

ポロックの絵にはまた、動きがある。一枚の絵のなかで動きを表現するのは存外にむずかしい。それは一瞬を切り取るという絵画の宿命なのかもしれない。しかし、たとえばポロックの《ナンバー7,1950》(1950年)という作品をしばらく観ていると、茶色い地の上を白い線がグルグルと回転しながら、右から左へ、あるいは左から右へと動いているように観えてくる。

このようにポロックの絵画は、近づいたり遠ざかったり、視線をあちこちへ漂わせたり、あるいは凝視したりすることで何かが観えてきて、まるでステレオグラムのようだ。観る側もまたアクションを起こすことで作品の核心に触れることができる、ともいえるかもしれない。

なお、愛知県美術館の常設展示室には、日本におけるアクション・ペインティングの作品として、白髪一雄の《作品》と題する絵(1963年)が展示されている。この絵は、床に置いたキャンバスへ絵の具を盛り、それを天井にぶら下がりながら裸足で塗り広げるという技法で描かれたものだ。ただ、白髪が2008年に83歳で亡くなるまでこの技法にこだわり続けたのとは対照的に、ポロックは自身の地位を確立した画法にわずか数年で見切りをつけ、方向転換をはかった。回顧展の終わりのほうでは、黒を基調とした晩年の作品も展示されている。
当時はこの転換を「失敗」や「退行」とする声が多かったそうだが、黒に赤茶色のアクセントをつけた作品など、作風は変わっても大胆さ、力強さには変わりがない。

しかしポロックは新たに着手した技法を結局完成させないまま、1956年、自動車運転中の事故で急死してしまったからだ。展覧会の出口近くには、ポロックが死んだとき地元の新聞に出た現場写真をもとに、彼の乗っていた車のタイヤのホイール、事故前に飲んだと思われるビールの缶、さらに右足に履いていた靴(これだけ本物)が草むらに散らばった様子が再現されている。全体を通して、作風をめまぐるしく変え作品自体にも動きを持たせたりとポロックが終始動的であったことがうかがえるこの展覧会にあって、ここだけは時間が止まってしまったように感じられる。

第二次大戦後の美術は、アメリカでもヨーロッパでも日本でも、コンセプトだとか行為だとかがまず先にあり、作品は二の次という傾向が時代を追うごとに強まっていった。ポロックは間違いなくその先駆けであったわけだけれども、一方で彼は“最後の画家”ともいえるかもしれない。彼の作品は単に技法が奇抜というだけでなく、そこには後世の鑑賞に耐えうる作品としての強さ、オリジナリティがあるからだ。一見、カオスのごとくむちゃくちゃを描いているようでいて、よく観れば、そこには色彩のリズムというかハーモニーが感じとれ秩序がちゃんと存在することがわかる。その世界を、ぜひこの機会に多くの人に味わってほしい。(近藤正高)
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