『コクリコ坂から』が、すごい好き。
最初はイメージイラスト見て、ファンタジーなのかと思っていたら、まさかの学園紛争期の恋愛物語なんだもんなあ。
原作と全然違うしどうしちゃったのと思った。
どこが面白かった?と聞かれたら、一言。
これは萌え掃除アニメだ
ヒロインの海ちゃん。生真面目で気がちょっと強くて、でも毎日楽しそうで。いい子じゃん。

その妹の空ちゃん。髪の毛ふわふわにいじって、おませで流行りものに敏感で、惚れっぽい。かわいい。
海ちゃんが出会う俊君はもうカッコイイの権化ですね。彼を見ればモテを学べますよ絶対。コロッケとか。

他にも学校の女の子達全員が強気でパワフル。一方弁論を叫ぶカルチェラタンの男子学生がへっぽこでいい。
大掃除シーンでは大勢の男の子と女の子がボーイミーツガールしちゃって、たまらんかったですねえ。そして旧体制的なものを一斉に片付けてピカピカのキラキラにする。海ちゃんや俊君も色々かたをつけていく。それがかわいいかわいい。

だから萌え掃除アニメ。
ちなみに個人的一押しキャラはボサボサ髪にメガネでマイペースに絵を描いている広小路幸子さんですので、目をまんまるにして見てください。
アニメだからこそ見られる理想の純粋系少年少女。いいじゃないの。

実は放映された当時は困惑もありました。
見終わったあと海に胸キュンな気分で映画館をあとにした後、宮崎吾朗監督の発言やインタビューを見たわけですよ。

そしたらほとんどが、大変だった。想像以上だった。驚いた。
え?なんでそんな抽象的なの。父親の宮崎駿は作品について高らかに語っていたよ、そんな感想じゃなんのこっちゃわかんないよ。

実はこれが、彼の大変な境遇を表している言葉だったのが、後から明かされ始めます。

ぼくはすんなり「いい萌えアニメだ」とニヤニヤしていましたが、それだけじゃなかった。
宮崎吾朗が『コクリコ坂から』を作った時、「スタジオジブリ作品」じゃないといけないという重圧を背負っていました。

『文藝別冊 総特集 神山健治』で、神山健治(『攻殻機動隊S.A.C』『009 RE:CYBORG』監督)と宮崎吾朗の対談が載っています。
これが押井守・宮崎駿という巨頭の下で働いている二人の苦悩がものすごく浮き出ている、強烈な対談。
なんせ神山健治の第一声が「お互い上の世代にはひどい目に遭わされてきた……(笑)」です。
二人共表現者としての押井守・宮崎駿を尊敬しているけれども、実際にものを作る段階になると彼らが口出ししてきて何もできなくなる、というのを赤裸々に語ります。

特にジブリは今、宮崎駿の作品がメインの旗となり、「宮崎駿のスタジオ」というイメージが強いです。他の監督ももちろんいるのですが、それでも宮崎駿自身、自分のスタジオという意識が強い。

宮崎「米林君(米林宏昌『借りぐらしのアリエッティ』監督)も次なにやるんだって脅迫されて。かわいそうに(笑)」
神山「米林さんは年下ですか?」
宮崎「年下ですね。だから同じような目に遭っていますね。監督がOK出した美術でも、後ろから白いひげの人が来て「直せ」って」
神山「駿監督は自分の作品を作ってないときもスタジオにいらっしゃるんですか?」
宮崎「うろうろしています」
神山「スタジオが大好きなんですね、きっと」
宮崎「現場の古参の指揮官ですね。若い小隊長に「何してんだ」って言う」

白いひげの人、って言う表現あたりに息子吾朗の気持ちが見え隠れします。
逆を返せば、それだけスタジオジブリに愛着のある宮崎駿監督。確かに『崖の上のポニョ』みたいな天才というか奇作というかとんでもない作品作られちゃったら、それを超えるなんて到底難しい話。ましてスタジオジブリにいる作家は宮崎駿や高畑勲にあこがれてきている部分もあります。
ここから新しい監督が次々出てくれば!という思いは宮崎吾朗にもあったようですが現実のところそうでもない。

宮崎「僕みたいな者でも監督ができるってことがわかれば、「オレだってできる!」って人がジブリからいっぱい出てくるだろうと思っていたんですけど、でもそう思っていたのは僕一人だった(笑)」
確かに宮崎吾朗や米林宏昌の話を聞くと、なかなか難しそうではあります。

宮崎吾朗が『ゲド戦記』で監督になったのは、色々な状況が折り重なっての偶然。
『ゲド戦記』は原作者から宮崎駿指名で制作してほしいと言っていました。ところが宮崎駿はやらないと言い、若手で、ということで鈴木プロデューサーが動きます。
宮崎吾朗は最初、若い監督が出てくるためのお手伝いとして立候補することになります。ところが時間がたっても誰もやる人がいない。周りはもう宮崎吾朗がやるものだ、という空気になって、監督になりました。なっちゃいました。

宮崎「そういうこと言うから嫌われるんだろうけど、しょうがないです。成り行きでなっちゃったから。本当に素人でいきなり監督になったので、「作品に対して熱い思いがあります」とかは言えない。終わったらすぐにジブリ美術館に逃げちゃえと思ってた」
神山「『ゲド戦記』が終わった後はあまり居心地がいい感じではなかったですか?」
宮崎「終わってキャンペーンをしているときは状況的にハイになっていたのでわからなかった。それが終わってから、これはまずい、早く美術館に戻ろうと思いました」

ずいぶんざっくり言ってしまっています。やっぱそうなのね。
神山健治もそうとう上の世代にいびられたり、話を聞いてもらえなかったり、軽くあしらわれたりと体育会系な辛い経験を経てきているため、話が弾む弾む。
宮崎吾朗はというと、『コクリコ坂から』制作後も、監督であるにもかかわらずこんなことに。

宮崎「「どこか外でやってみては」とは言われてるんですけど。「スタジオにいると宮さんうるさいから、やりたいんだったら一回外に行ってきな」って。ほんとにうるさいですからね(笑)」
神山「外も楽しいかもしれないですよ」
宮崎「こうしなきゃいけないみたいな前提が多いから、それがいい方向にいけばいいんですけどね。縛られると辛い感じもある。『コクリコ』が終わった後、メインスタッフ全員集められて反省会やりました。お説教です。言われなくてもわかってるみたいなこと言われたりとか」

これは別に反省会が悪いというわけではないですし、作品が悪いという意味でもないです。作った後に必ず、反省点を話し合って見つけ、さらに糧にするのは当然のこと。
ところがそれは普通監督がすることなのに、年上世代が先にやってしまって何も言えなくなる、という状態が難しいということ。
神山健治も「監督が主導でやればいいんですよ。駿監督がやる前にやっちゃって「もう終わりました!」って」とアドバイスしたりしています。

自分たちの上の世代の仕事スタイルを見てきた二人は、宮崎駿・押井守・鈴木プロデューサーが三人とも「自分の思っておることしか喋っていない」から勝ち続けている、と語ります。
ようは最初から「相対していない」。押井守に至っては「そもそも反省会などない」だそうです。すげえ。
当然のように、下の世代の神山健治と宮崎吾朗は、何も言えない習慣がついてしまった、と語ります。

神山「基本的に最初から大きなことは言わないでおこうみたいなことが習慣づいてるかもしれないですね、僕らの世代は」
宮崎「そう言えるものがない世代ですね」
神山「「発見した!」と思っても、「うん。知ってた」と上の世代に言われてしまうので、最初から何も言わんでおこうってなりますね」

ああー、そうか。
だから宮崎吾朗は『コクリコ坂から』公開時に曖昧なことしか言わないで、今になってこんなぶっちゃけてるのですね。

『ゲド戦記』は宮崎吾朗のいっぱいいっぱいな状態が出た作品(本人も言っていますし)ですが、『コクリコ坂から』はその点きちんと最初から作ろうとした意思を感じる作品です。
なんせ女の子がかわいい。
かわいいのはみんな一生懸命生きているのを不思議に感じておらず、それが生き方になっているから。ちょっと湿っぽさも持ち合わせているけど前向き。ここを描くのが宮崎吾朗はうまい。
びっくりするほど良い人だらけな世界に、ノスタルジックのいいところを詰め込んで浸れるような世界も心地よい。
そしてカルチェラタンの雑然さと青春と、元気いっぱいな大掃除を見るだけでも価値のある作品です。

ですが、これらの本音を見た上で考えると確かに、うん。
「ジブリ」というのが宮崎吾朗の名前を高く押し上げると同時に、重い足かせになっているのもよくわかります。
宮崎吾朗と神山健治は「物語よりも、感覚的にわかるものをアニメで表現したい」と語ります。
そのへんも細かな部分で『コクリコ坂から』では説明もなしに入れられているので、探してみてください。

ちなみに、神山健治は宮崎吾朗との対談で、ProductionI.Gに来ないか、という話までしています。
ジブリと言う枠、「宮崎駿の息子」という肩書きを取った宮崎吾朗。これは確かに見てみたい。


『コクリコ坂から』
『文藝別冊 総特集 神山健治』

(たまごまご)