世の中を見渡すと、必ず誰かがどこかで笑っている。「動物の中で笑うものは人だけ」(アリストテレス)ということで、笑いという特権を大いに人は活用しているわけだ。
それにしても何がなぜそんなに可笑しいのだろうか。そんな素朴な疑問にして難問に哲学者たちは古来より頭を痛めてきた。さて、彼らが出した答えは何だったのか。

西洋哲学のルーツ、古代ギリシャで早くも「笑い」について議論した哲学者がプラトンだ。滑稽さ(笑うべきもの)は一種の「劣悪さ」のことで、それは一般的には「自己を知らないこと」から発生する。そうした無知は災悪であるとも考える。
そんな人たちの中でも
「力が弱くて、人から嘲笑されても仕返しができない者は、これを笑うべき者であると言えば、それで君は本当のことを口にしたことになるだろう」とのこと。
さらに、そんな力が弱くて災悪を抱えた人をなぜ笑うのかというと、その源は「嫉妬心」。
「友人の滑稽な点を笑うのは、他方からみれば、嫉妬の情に快感を混入しているわけで、つまりはその快を苦に混合していることになる。(中略)嫉妬は魂の苦痛であり、笑うことは快なのである」

お分かりだろうか。こう言い換えることもできよう。たとえば人は他者の能力や外見、財産に嫉妬を覚える。
が、それらが自分より劣っていると見るや、苦(嫉妬心)が消えうせるようにして快(笑うべきもの)になるのである。プラトンはこのように嫉妬の心理メカニズムから笑いを説明している。19世紀のドイツ哲学者ニーチェもプラトン説を補足するようなことをたった一行で述べている。
「笑いというのは、良心の呵責(かしゃく)もなしに他人の不幸を喜ぶことだ」
笑いには優越感、そして残酷さが隠れているのだ。

しかし、現実には嫉妬からくる優越感ではない笑いもある。たとえば道理に合わないトンチンカンな出来事を見聞したとき、思わず腹を抱えてしまうといった類の。
そんな笑いについて説を唱える哲学者ももちろん存在する。その一人が、18世紀ドイツ哲学者のカント。
「およそ激しい、身体をゆすぶるような哄笑(こうしょう)をひきおこすものには、何か理屈に合わないものが含まれているに違いない。笑いは、緊張した期待が突然無に転化することから生じる情緒である」

抽象的で難しいので、カント自身が挙げた具体例を参考にしてみよう。
イギリス人が食卓でビール瓶をあけると、中のビールが泡だって勢いよくほとばしり出た。この様子を眺めたインド人はなんべんも驚きの叫び声をあげた。
そこでイギリス人が、
「一体何をそんなにびっくりなさるんです?」とたずねたら、このインド人はこう答えた。
「いや、わたしだってビールが瓶から沸騰するのを驚いているのではありません、ただこのビールをどんなふうにして瓶の中へ詰めることができたのか、それが不思議なのです」
イギリス人は当然ビールが噴出すことの何にびっくりしたのかをたずね、その答えを期待していたのに、予想外にまったくそれに反した答えが返ってきて逆にびっくりしたとほぼ同時に、笑いがこみ上げてきた。これが「緊張した期待が突然無に転化」の事例。

カントの笑いの身体的現象面からの説明も読んでみよう。
「一切の思考は、同時に身体の諸器官における何らかの運動と調和的に結びつくものであるということを想定するならば、心が自分の対象を考察するに当って、ある立場に置かれたかと思うとすぐまた別の立場に置かれるような場合には、立場のかかる迅速な転換に内臓の弾性的な部分の緊張と弛緩とが交互的に対応することがあり、またその緊張と弛緩とが横隔膜に伝えられるという過程は(くすぐられている人たちが自分の内臓について感じるように)、容易に理解される」
心理的現象が身体(おもに横隔膜)に影響を及ぼし笑いを引き起こす。なるほど前段と合わせて明快に筋が通っている。


「神のようなプラトン、驚嘆すべきカント」(ショーペンハウアー)とはよく言ったもの。笑いについても優れた考察を残しているのは当然か。後編は、両者を賞賛したショーペンハウアーから始めたい。
(羽石竜示)

引用文献
■ アリストテレス全集8「動物部分論」島崎三郎訳 岩波書店
■ プラトン全集4「ピレボス」田中美知太郎訳 岩波書店
■ ニーチェ全集8「悦ばしき知識」信太正三訳 筑摩書房
■ カント著「判断力批判(上)」篠田英雄訳 岩波書店
■ ショーペンハウアー全集1「根拠律の四つの根について」生松敬三訳 白水社