今のところ、オーディトリウム渋谷というミニシアター1館のみで、4月19日までの限定公開だが、これは見逃してはならないと激しく胸騒ぎを覚える映画なのである。
登場人物のひとりの美人ちゃんが、ある行為中「やばぃやばぃやばぃ……」と声を発するのだが、ほんとにかなり「やばい」作品だ。
ことのはじめは、コウジとトモコが同棲しているワンルーム。
夜、コウジの友達オサムと、トモコの勤め先の友人ユウコを引き合わせるための鍋パーティーがはじまろうとしている。
参加メンバーは、コウジの弟ナオキとその彼女サトミ、コウジの友達ユウタと、彼の地元仲間で部屋に居候しているタカシ、トモコとユウコの同僚カオリ。
これは、20代の男女9人をサンプルにした「恋愛あるある」と言っていい。
狭いワンルームで鍋を囲む9人の言動は「あるある」だらけで、フフフ、とにやけるばかり。
例えば、トモコが彼氏の弟の彼女にはじめて会って、まず年齢を聞く。
「え〜若い〜」とむやみに驚くが、その言葉にはあまり中身がない。だからその後、案の定ふたりの会話は続かない。
やがてトモコは彼氏の弟の彼女をほったらかしにして、自分の女友達と盛り上がる。こういうことって「あるある」。
また、今日の主役であるユウコが人気アイドルに似ていると聞いて、男たちが楽しみにしていると、やってきた彼女は……。
女が言う「かわいい」は男の求める「かわいい」とは違うという「あるある」。
コウジたちが落胆を表面に出したり出さなかったりする中、タカシだけはユウコにも気さくに話しかけている。
タカシはコウジの彼女トモコとも話が弾む。こういう誰とでも話せるが、実際のところあまり重用視されていない人って「いるいる」。
大変鋭い人間観察と洞察によって描かれた映画なのだ。
パーティーの主催者であり、部屋も提供しているコウジはこのグループの中で大将的な威圧感を放ち、オサムをもてあそぶ。
この部屋全体を支配する人間関係の構造がじわじわと透けて見えてくる。
他人事として見ていると大変愉快な光景だが、これが自分に関わることだったらなんとも残酷だ。ああ、映画で良かった。
これだけでも十分、見えない空気を可視化した秀作だが、鍋パーティーは前哨戦でしかない。
数時間後パーティーがお開きになると、人間関係はさらに濃密で、熾烈になり、鍋パーティーで見えていたものとまるで違った光景に変化していく。
舞台は、コウジとユウコの部屋、オサムの汚い独身部屋、ユウタとタカシの部屋、ナオキとサトミの部屋の4カ所に分散する。
映画は、4つの部屋の中で男と女が各々どんなことをやったり言ったりしているか眺めるような趣向になっている。
これは、ペットショップのショーウインドウに張り付いて、いくつかの檻に入った猫や犬の動きを順番に目で追っていると、いつまでも飽きることがないという気分とどこか似ている。
ただ、この映画の登場人物は、犬や猫ほどほのぼのしていない。
キスやセックス描写が生々しく描かれているし、毒性のある言動も矢継ぎ早に出てくる。
猫や犬がいきなり毛皮を脱ぎだして、違った生き物になっちゃった、みたいな衝撃がある。
4つの部屋では、そこここで、あんなことやこんなことが!
彼氏の弟の彼女をほったらかしにしたトモコには、ひと波乱もふた波乱も待っている。
冴えないオサムとブスのユウコの関係は、大方の予想を覆す展開を見せる。
タカシがブサイクちゃんにも気さくに話しかけていた本音は……。
美人のカオリが終電を逃して身を寄せた場所は……。
ああ、こわい。ああ、知りたくない。でも、その先が見たい。
集団の中でどうしたってできあがるカースト、
当人の前では言わないことを、離れた場所ではあけすけに語る心の弛み、
気持ちと裏腹なことをついついしてしまう屈折、
浮気の正当化、事実をごまかす欺瞞、誰かに依存せずにはいられない弱さ、
理屈ではどうにもならない本能、
これらが、まるでうっとおしい結露のように、ぬぐってもぬぐっても浮かんでくる。
一度できたかのように見えた関係性は、安定することなく、主導権が何回も何回もでんぐり返っていく。
人間が本音を隠そうと、必死にたくさん重ね着したものを徹底的にはがしにかかる原作、脚本を手がけたのは、三浦大輔。
彼が2006年に劇団ポツドールで発表し話題になった舞台作品を、大根仁が映画化した。
舞台版では部屋が舞台上に4つ作られ、その中で起こっていることを同時多発的に見せた。画面4分割、「24」方式のライブ版みたいなものですね。
大根監督は映画化に当たって、その「24」方式は使わず、4部屋の出来事をリズミカルな編集でバラバラに解体して、つないでいく。
それによって、各部屋での人間の感情の押し引きが、スクリーンの大画面でじっくり見せつけられるし、その編集の連続性が、4つの部屋の出来事は全く無関係ではなく、どこかで影響し合っているようにも思わされる。
実際、9人は、何かとケータイで連絡を取り合っている。出る出ないも含めて、行動を規程されているのだ。そのへんも現代をよく表しているところ。
ムービーも撮ることができるスチールカメラ3台(キャノンEOS5Dと6D)で撮った映像(「モテキ」のときと同じく大根監督も撮影に参加)は、手持ちのビデオやケータイで撮ったようなプライベート感が強い。
映画「モテキ」で大根監督は、森山未來(主人公・幸世)が部屋に長澤まさみ(ヒロインみゆき)を呼んだときのドキドキ感を、カンパニー松尾のAV作品などを参考にして再現したが、その成果が「恋の渦」ではふんだんに発揮されている。
風呂上がりにTシャツとショーツを無造作に着用した女の子が部屋をプラプラしている姿や、黒いハードめな服を着た美人がベッドに押し倒され、スカートからチラ見えするショーツなど、パンツ萌えにはたまらない。
また、彼らの表情や吐息や体の動きから、ためらいや探り合い、じらし合いなどの
バイブレーションがはっきり伝わってくる。
ストレートにだだ漏れな人でも、どこかでそれにコンプレックスを感じていたり、
葛藤の末に、どストレートに突き進んでしまったりと、ひとりとしてシンプルな人は出てこない。
かっこつけている男子が最終的に女子に見せる表情なんかは「あるある」の極みで、他人の秘め事をのぞくやじうま感覚で見ているうちに、だんだん自分と重ねても見えてくる。
冴えないくんとブサイクちゃんのやりとりなんて涙なくしては見られないし、この映画鑑賞は苦行プレーじゃないかという気さえしてくる始末だ。
今、起こっている出来事が一面的なものではなく、角度を変えて見るとまったく様相が変わってしまうことは、日本アカデミー賞で多くの賞を受賞した「桐島、部活やめるってよ」(原作 朝井リョウ 監督 吉田大八)でも描かれたが、「恋の渦」のチャレンジ性は、無名の俳優しか出ていないこと。だからこそ身近感が一層強烈になる。
それから、ラストのインパクト。
「恋の渦」には、まさか、そんな、でええ〜〜〜???ってなことが待ち受けている。
はたして男女9人の恋に昇華や救済はあるのか。
ちなみに、「恋の渦」は〈シネマ☆インパクト〉という自主映画企画のひとつ。
映画の学校に学びに来た人たちが、一流監督と低予算で短期間で映画を1本つくる実習だ。
大根監督にとっては初の自主映画。
わずか4日間の撮影期間で、2時間20分作品を作りあげた。
低予算でも無名の俳優の起用でも本格的な映画はできる。
それを体感するだけでも価値はある。(木俣冬)