『天才・菊池寛』がユニークなのは、副題に「逸話でつづる作家の素顔」とあるとおり、菊池の人生が数々の逸話を通して語られているところだ。菊池がいかに逸話に富んだ人であったか、文芸評論家の小林秀雄は次のように書いている。
《菊池寛という人が、逸話の問屋の様な人であったことは、近しかった人がみなよく知っているところであるが、誰か菊池寛逸話集というものを、年譜でもつけて編纂したら、随分特色のある伝記が出来上りはしないかと思う》(小林秀雄『作家の顔』)
小林の提案する「菊池寛逸話集」を実現したのが、まさに今回文庫化されたこの本というわけだ。そこに出てくる、菊池と関係の深かった作家や編集者、あるいは家族の証言を読んでいると、いちいちおかしい。たとえば、菊池の“食道楽”にまつわるこんな話はどうだろう。
あるとき、香川・高松中学時代の友人が上京したおり、菊池はコーヒーのうまい店に案内した。が、出てきたコーヒーを一口すするや、菊池は店員に「きのうのコーヒーと違うじゃないか」とクレームをつける。「そんなことはない」と返されたものの、菊池は「コックに聞いてごらん」と譲らなかった。
《やがて、もみ手をしながら、コックが現れて、菊池たちのテーブルの横で、腰をかがめた。
「申しわけございません。実は、きょうはつい、いそがしくて、コーヒー沸しの鍋を洗わないで使ったものですから……。」
と、ペコペコあやまった》
こんなふうに鋭い味覚を持ちながらも、一方では無頓着なところもあった。
作家の逸話というと、以前『追悼の文学史』のレビューでとりあげた川端康成のように、とかく浮世離れした話が目につく。だが菊池寛の逸話は、そういうのとはちょっと違う。彼の話がおかしいのは、浮世離れしているからではなく、むしろ逆で、浮世離れした人間たちのなかに、ひとり世間慣れした“大人”がいたがゆえではないだろうか。そう思ったのは、作家の今東光(こん・とうこう)が明かした、次の話を読んだからだ。
あるとき、芥川龍之介が古本屋で高い金を出して春画を買い、若き日の今東光もそれをよだれを垂らしながら見せてもらったという。だが、芥川から同じ絵を見せられた菊池は、その金額を訊ね、150円(当時でいえばかなりの金額)で買ったと聞くと、そのまま口をつぐんでしまう。あとになって菊池は、今に対し《芥川は馬鹿だよ。あんなもの百五十円出して買うくらいなら、本ものの女を百五十円出して購(か)った方が好いよ》と漏らすのだった。いまふうにたとえるなら、ネットオークションで高額で落札したレアもののエロ同人誌を、大喜びしながら回し読みしているオタクたちに向かって、「ソープに行け!」と一喝するのがさしずめ菊池の立場といったところだろうか。
菊池の大人ぶりは、仲間の作家などへの世話の焼き方からもうかがえる。そもそも雑誌「文藝春秋」を創刊したのも、一本立ちできない作家たちに働く場所を与えることが目的のひとつだったし、『金色夜叉』で知られる尾崎紅葉の没後、その未亡人が金に困っていると知るや、文芸家協会の事務所へ赴き、出版社にちゃんと印税を出させるよう言ってくれと頼んでいる。
金の無心に文藝春秋社を訪ねてくる作家たちに、ポケットマネーを出すこともよくあった。今日出海(こん・ひでみ。前出の今東光の弟)によれば、菊池が懐から出す紙幣はしわくちゃで、いかにも無頓着に見えて、金額を数えてみると多くも少なくもなく、まるであらかじめ計算していたかのようであったという。
このほかにも本書には、1930年に菊池がライバル会社の中央公論社に乗りこみ、『婦人公論』の編集長を殴ったという話が出てきたりと、めっぽう面白い。この殴りこみ、発端が女性がらみだったことといい、半世紀以上あとのビートたけしの「フライデー」事件を彷彿とさせるのだが、たけしは軍団を率いての乱入であったのに対し、菊池は単独で所業におよんでいる。
この事件も思いつきのようでいて、そこには筋は通さねばならないとの思いが菊池を駆り立てた面がある。同様に、敗戦後まもなく、自分の短編集を新潮文庫から出すにあたり、解説を人気作家の吉川英治の名前を借りて自分で書いたという話も、突飛なようでいて彼なりにちゃんとした理由があった。彼はくだんの解説を次のように締めている。
《凡(およ)そ大正から昭和の初めに当って、菊池氏の作品ほど、大衆の思想的、文化的啓蒙に貢献した作品は少いと云ってもよい。が、文学作品の社会的影響などは、甚だ微力なものである。戦いに敗れた今日、改めて封建思想の打破が叫ばれなければならぬほど、菊池氏としては、残念至極なことと思っているであろう》
このとき、菊池は戦時中の戦争協力を理由に公職追放の身にあった。戦前から、リベラリストとして封建思想の打破に努めていたとの自負があっただけに、この処分はよっぽど無念であったのだろう。
近代日本の文学者のなかでも、菊池ほど文学の社会的影響について考えていた作家はいない。「文藝春秋」を創刊、そのために出版社も設立し、また友人だった芥川龍之介や直木三十五の名を冠した賞を制定したのも、そんな彼独特の文学観にもとづくものだった。菊池寛の「天才」とはやはり、作家である以前に、まず大人・社会人として振る舞い、そのなかで数々の画期的アイデアを生み出したことに尽きるのではないか。
(近藤正高)