1964年10月16日。同月10日に開会した第18回オリンピック東京大会は7日目を迎え、15日間の会期の折り返しを曲がろうとしていた。
前日の15日には、陸上男子100メートルの準決勝で、アメリカのボブ・ヘイズが9秒9を記録、追い風のため公認はされなかったものの史上初めて10秒の壁を破っている(決勝では10秒ジャストで優勝を果たした)。

この日、東京・銀座の並木通りに奇妙な集団が現れた。参加した男たちは白衣をまとい、おのおのぞうきんやはたき、たわしなどを持ち寄り、道路の清掃を行なった……のはいいのだが、このときの記録写真を見ると、路面をぞうきんで懸命にこする彼らの姿はいかにも滑稽だ。当時27歳だった参加者のひとりは後年、次のように書いている。

《道路のゾーキンがけというのははじめてやったのですが、ゾーキンに両手をついてお尻をピンと立てて、トントントンと廊下をやるのと同じようにやって行くのですが、いざやってみるとゾーキンがすぐボロボロになってしまう。これは困った問題です。
セメントの道路にゾーキンは合わないようです。ゾーキンがけをする場合は、道路は板張りの方がいいと思いました》


何とも人を喰った感想だが、タネ明かしをすると、上記の文章は美術家の赤瀬川原平の著書『東京ミキサー計画』からの引用で、くだんの清掃活動は、赤瀬川が画家の高松次郎と中西夏之とともに前年に結成した「ハイレッド・センター」の呼びかけで実施されたパフォーマンスであった。ちなみにハイレッド・センターという秘密結社めいたグループ名は、単純に高松・赤瀬川・中西の頭文字を英訳して並べたものである。

現在、名古屋市美術館で開催中の「ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡展」でも、「首都圏清掃整理促進運動」と題するくだんのパフォーマンスについて、解説パネルと写真などを使って紹介されている(展覧会は2013年12月23日まで。そのあと、来年2月11日~3月23日には東京の渋谷区立松濤美術館にも巡回予定)。

前出の赤瀬川の著書によれば、このとき路上を真剣に清掃していた彼らに対し、通行人は不審な目で通りすぎたり、かと思えば、パトカーに乗った警官から激励されたりと、さまざまな反応があったという。


そもそもなぜ、ハイレッド・センターはこのようなパフォーマンスを行なったのか? それというのも、オリンピックを前に、外国からの選手や賓客を迎えるべく、街の隅々まできれいにしようという動きが盛んになっていたからである。とすれば、ハイレッド・センターはそういう空気に対し、異議を唱えるつもりで逆説的に清掃を行なったのだろう……とも思いたくなるが、当事者である赤瀬川はこう書いている。

《そういう空気の中で、それじゃあいったい我々は何をすればいいのかと、ハイレッド・センターは深く考えました。考えたけどあまりいい考えも浮かばずに、やっぱりこりゃ掃除だねと、みんなと同じように掃除をしようということになりました。でも掃除は掃除だけど正しくやろう、テイネイにやろう、ジックリやろう、これが本当の掃除だという、何というか、日本一の掃除をやってやろうじゃないかと、そう心に決めたのでした》

いかにも、のちに老化を「老人力がついた」と表現するなどした赤瀬川ならではのはぐらかし方である。ちなみに、今回の展覧会の「概要」では、ハイレッド・センターについて、《平穏な「日常」のなかに「芸術」を持ち込むことで、退屈な「日常」を「撹拌」しようと試みました》と説明されている。
「撹拌」とは、かき回したり、かき混ぜたりするという意味だ。とすれば、彼らが銀座の通りを白衣姿でぞうきんがけをしたのも、オリンピック中に漂っていた空気をかき回そうとした、と理解することもできるだろう。その表現のしかたも、声高に主張したりするのではなく、掃除という誰にも文句をつけられない形をとったのが、してやったりという感じがする。

ハイレッド・センターの原点は東京オリンピックの2年前、1962年の「山手線事件」なるイベントにさかのぼる。これは、高松や中西ら若手アーティストたちが、山手線の車内や駅でさまざまなパフォーマンスを展開したというもので、文字どおり「平穏な日常のなかに芸術を持ち込む」試みであった。赤瀬川が加わるのは、翌63年3月の読売アンデパンダン展(読売新聞社主催の無審査の展覧会)がきっかけだった。
ここで意気投合した3人は、この年の5月、「第5次ミキサー計画」という展覧会を開催、初めてハイレッド・センターを名乗る(最初の展覧会なのに「第5次」としたところが何ともひねくれている)。

以来、ハイレッド・センターの面々は、ビルの屋上からトランクなどさまざまなモノを落下させたり(「ドロッピング・ショー」)、はたまた帝国ホテルの一室を借り切って、友人・知人の芸術家を招いて身体測定を行なったりと(「シェルター計画」。ちなみにこのときの招待者には、横尾忠則や、ジョン・レノンと結婚する前の小野洋子、後年ビデオアーティストとして知られることになるナム・ジュン・パイクなどがいた)、多様な活動を展開した。冒頭に紹介した「首都圏清掃整理促進運動」は、その活動の終わりがけに行なわれた、いわばハイレッド・センターの集大成的パフォーマンスとも位置づけられる。

この時期、高松はヒモ、中西は洗濯バサミという素材を好んで作品で用い、街なかでのパフォーマンスでもヒモを引きずったり、体中に洗濯バサミをつけてみたりして人々を驚かせている。他方、この時代の赤瀬川の代表的な作品としては、さまざまな日用品を梱包した一連の作品群がある。
たとえば、前出の3人が手を結んだ読売アンデパンダン展では、大きな紙とヒモで梱包された2点のキャンバスと並べて、千円札を拡大模写した絵画を展示している。今回の展覧会にも出品されたこの千円札の模写は、大きなキャンバスを使って細部まで描きこまれているので、ぜひじっくり見てほしい。

赤瀬川はまた、「模型千円札」と称して千円札を紙に印刷し、それを展覧会の案内状や、モノを梱包するのに使った。もっともこれによって彼は後年、通貨及証券模造取締法違反の疑いから起訴され、最高裁で有罪判決を受けてしまうのだが(1970年)。その公判では、証拠品として、日用品を「模型千円札」で梱包した赤瀬川作品をはじめハイレッド・センターの作品が陳列され、法廷はさながら展覧会の様相を呈したというからおかしい。

「模型千円札」は貨幣というものの価値を攪乱するものであったし、梱包作品もまた、モノと本来の機能を切り離した=かき乱したものだといえる。
ハイレッド・センターも参加したグループ展「不在の部屋」で赤瀬川は、椅子やラジオ、それから扇風機を梱包して出品している。私はこの作品を、18年前にやはり名古屋市美術館で開催された赤瀬川の回顧展で初めて見たのだが、扇風機が梱包されたまま、グルグル首を振っている光景は、いかにも機能を剥奪された感じがして面白かった(ただ今回の展覧会では、扇風機は電源を入れずに陳列されていたのが残念!)。

考えてみると、日用品を梱包して役立たずにしてしまうという若き日の赤瀬川の作品は、後年、彼が「超芸術トマソン」と名づけた、街なかに点在する無用の長物にも通じるものがある。「尾辻克彦」名義で書かれた小説のなかでの以下のような描写も含め、赤瀬川原平は徹頭徹尾、モノの価値を攪乱し、モノそのものを愛でるフェティシズムの人なのかもしれない。

《お墓というのは、家の中でいうとお風呂みたいだ。(中略)裸の体を囲むのが、ツルンとした白いタイルで、それが体の中の硬い骨に似ているのだろうか。水分をはじいてしまう、硬い石の部屋。やっぱりお墓だ》『父が消えた』

さて、せっかくなので、ハイレッド・センター以外にも、1964年の東京オリンピックに対する芸術家たちのアクションを紹介しておこう。

オリンピック開催を前に日本全国をまわる形で聖火リレーが実施されたが、このとき仙台では、ダダカンこと糸井貫二というハプナー(ハプニングを起こす人の意)が聖火を見て興奮し、そのまま銀座通りへ赴き、聖火ランナーを真似て全裸で走っている(糸井については、竹熊健太郎『箆棒な人々』に詳しい)。

あるいは、加藤好弘の主宰する「ゼロ次元」というグループは、聖火を略奪する計画を立てていたという。これは、聖火ランナーに扮装して最終走者から聖火を奪い取り、そのまま聖火台をめざして突進するというくわだてだったようだ。ただ、沿道で聖火ランナーを待ち構え、ランニング・パンツの格好になって飛び出そうとした瞬間に、私服刑事らしき一団によって押し戻されてしまったのだという(秋山祐徳太子『通俗的芸術論』)。

それにしても、オリンピック前後の芸術家たちの直接行動を振り返るにつけ、当時の社会のゆるさみたいなものを感じる。実際、当事者のひとりの高松次郎も、ハイレッド・センターの頃とその後の変化について、のちに座談会で次のように語っている。

《六〇年代後半になりだすと、高度成長でどんどんいろんなもののあいだに関係ができてきて、いろんなことが整理され始めて、で、やりにくくなってくるという、その前段階の社会状況ってやつが、あったような気がする》(『東京ミキサー計画』)

オリンピック開催にあたって広がった、街をきれいにしようという動きは、まさに「いろんなことが整理され始める」徴候であったのだろう。
(近藤正高)