2014年11月10日、インドネシア「英雄の日」であるその日のTwitter上には「インドネシアに新しい国民的英雄が生まれた」というツイートが飛び交った。
世界最大級のTwitter利用国であるインドネシアから発せられたそのツイートはたちまち世界のTwitterのトレンドワードとなった。
ジャカルタの映画館のステージ上で15分間のスタンディングオベーションを受けたアディは、英雄という響きからは程遠い物静かな中年男だった。
しかし、アディがドキュメンタリー映画『ルック・オブ・サイレンス』(以下『LOS』)で見せた姿は英雄の名に値するものだ。
インドネシアの歴史に詳しい日本人はさほど多くない。今からわずか50年前に、100万人規模の大虐殺が行われたということを知らない人も多いだろう。その虐殺を指揮した勢力が今も政権の中枢にいることを知る日本人となるとさらに少ない。
その事実を昨年世界中で話題になったドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』(以下、『AOK』)を通じて知った人もいるはずだ。『LOS』はその姉妹作と言える作品。
前作『AOK』は、1965年にインドネシアで起きた大虐殺の加害者が、自らが殺戮したシーンを再現した様子をフィルムに収めた前代未聞の問題作だった。本作『LOS』は、虐殺の被害者家族に焦点を当てている。主人公のアディは兄を大虐殺で殺されている。
しかし、虐殺の被害者家族は、肩身の狭い思いをして沈黙を守るしかなかった。殺戮者が権力の中枢についていたからだ。やりきれない思いを抱いていたアディは『AOK』の撮影に協力する。そしてジョシュア・オッペンハイマー監督が次作の撮影のために2012年再度インドネシア入りをした際、監督に告げるのだ。
「虐殺の加害者と向き合ってみたい」と。
オッペンハイマー監督がインドネシアを離れている間に、映画にも登場するアディの父親は認知症になる。妻や息子であるアディ、そして殺された兄のこともすべて忘れてしまっているにも関わらず、虐殺の恐怖とトラウマは完全に心に染みついてしまっており、死ぬまでそれに囚われるのだろうと確信したアディは悲嘆する。
「アディは自分の子供たちを被害者家族であるという恐怖から脱却させるには、加害者たちに会うしかないと考えたのです。『AOK』用に7年間撮りためた加害者たちの様子を見て、復讐目的でも謝罪要求目的でもなく、落ち着いてゆっくりと話し合いにいけば、彼らが背負った重荷を降ろすことができ、加害者と被害者の関係ではなく、隣人としてともに生きていくことができるようになるのではないか、と言うのです」
オッペンハイマー監督は当時を振り返る。
「とても深く感動したのですが、絶対に無理だといいました。あまりにも危険でした。被害者家族が加害者と向き合うといことはインドネシア史上ありませんでしたし、加害者たちはいまだに権力の中枢を独占しています。
「でも、一応その話をクルーのところに持ち帰り話し合いをしました。今では副大統領や殺人部隊の司令官は私のことを心底憎んでいますが、当時は『AOK』は出来上がっていたもののまだ上映はされていませんでした。そして、アディが会いたがっている殺戮者の最上位の司令官と私が近しい関係にあるということは辺りでよく知れ渡っていたので、彼らが激情に任せて私たちに手を出すことはないだろうと考えたのです」
そうしてこの命がけの撮影は始まった。撮影後、アディ一家は25人の協力者の助力を得て半年以上かけて、そうした殺戮者の息のかかった地域から引っ越した。そして、たまたま『英雄の日』にジャカルタで行われることになった『LOS』のプレミア上映で、彼は聴衆とTwitterユーザーの惜しみない称賛を浴びることになったのだ。
ちなみに、もはやインドネシアに入国することの適わないオッペンハイマー監督は、そのプレミアには(テレビ電話の)Facetimeを通じて参加するしかなかったという。
映画では、アディは希望どおり次々と虐殺の加害者に会いに行く。兄を殺した実行犯、それを命じた司令官。殺戮者たちは明らかに罪悪感を抱いているが、それがアディへの懐柔に向かう人もいれば、脅しに向かう人もいた。そして皆一様に自分のせいではないと言い訳をする。動揺する加害者たちと、終始落ち着いて話をするアディの対比が強烈な緊張感を生む。
「虐殺を行った加害者たちは、一人残らず自分の行った殺戮が過ちだったということはわかっており、殺人の瞬間から罪悪感を抱いてます。問題は、彼らがその罪を背負っていく恐怖から逃れるために、つじつま合わせの物語を作り出すことです。そして自分たちが間違っていなかったということを証明するために、また新たな罪を犯して物語を強化するのです」
「罪悪感は、私たちが過ちを犯すことを抑制してくれます。でも一度罪を犯してしまうと、今度は罪悪感ゆえに積極的に悪を犯し続けることになるのです。最初の一線を越えないことが、本当に本当に大事なんです」
『AOK』と『LOS』の取材を通じ、人々や国家がいとも簡単に良心に嘘を塗り固め、悪を常態化させていくのかということを嫌という程見てきたオッペンハイマー監督は強い語調で語る。
「それは国家でも同じことです。だから、私たちが権力に対して批評的な目を向けることはとても大切なのです。為政者のいうことをうのみにするのではなく、本当に大丈夫なのか、なぜそういうことを言うのか、そのことによって誰が利するのかを常に批評的に問い続けなければいけません。それが民主主義を機能させるために何よりも大事です。批評的な思考(クリティカルシンキング)ができるようになる教育は何よりも大切です」
日本の事情にも詳しいオッペンハイマー監督は日本の現状に対しても危機感を示した。
「本来は自衛の範囲を越えて戦争をするということは、どんな国でも許されることではありませんが、実際には戦略的な理由や同盟上の関係で多くの国が行ってしまっています。もし日本がその一線を越えてしまったら、その後過ちを重ねていくかも知れません。
凡庸な悪がいかに容易く常態化し、人々を苦しめ続けるのかを描いたこの映画が私たちに問いかける問題は多い。
(鶴賀太郎)
世界最大級のTwitter利用国であるインドネシアから発せられたそのツイートはたちまち世界のTwitterのトレンドワードとなった。
ツイートはこう続いた。「英雄の名はアディ」。
ジャカルタの映画館のステージ上で15分間のスタンディングオベーションを受けたアディは、英雄という響きからは程遠い物静かな中年男だった。
しかし、アディがドキュメンタリー映画『ルック・オブ・サイレンス』(以下『LOS』)で見せた姿は英雄の名に値するものだ。

本年度最も大きな注目を集めるドキュメンタリー映画『ルック・オブ・サイレンス』。1965年のインドネシアの大虐殺事件の被害者が加害者と対峙するのを描く。ヴェネチア国際映画祭5部門受賞。7月4日(土)より、シアター・イメージフォーラム他全国順次公開。配給 トランスフォーマー。
(C)Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
(C)Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
インドネシアの歴史に詳しい日本人はさほど多くない。今からわずか50年前に、100万人規模の大虐殺が行われたということを知らない人も多いだろう。その虐殺を指揮した勢力が今も政権の中枢にいることを知る日本人となるとさらに少ない。
その事実を昨年世界中で話題になったドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』(以下、『AOK』)を通じて知った人もいるはずだ。『LOS』はその姉妹作と言える作品。
前作『AOK』は、1965年にインドネシアで起きた大虐殺の加害者が、自らが殺戮したシーンを再現した様子をフィルムに収めた前代未聞の問題作だった。本作『LOS』は、虐殺の被害者家族に焦点を当てている。主人公のアディは兄を大虐殺で殺されている。
しかし、虐殺の被害者家族は、肩身の狭い思いをして沈黙を守るしかなかった。殺戮者が権力の中枢についていたからだ。やりきれない思いを抱いていたアディは『AOK』の撮影に協力する。そしてジョシュア・オッペンハイマー監督が次作の撮影のために2012年再度インドネシア入りをした際、監督に告げるのだ。
「虐殺の加害者と向き合ってみたい」と。

主人公のアディ。兄殺害の加害者と対峙しても、冷静さを失わず理知的に物静かに応対を続けたのが印象的だ。
(C)Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
(C)Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
オッペンハイマー監督がインドネシアを離れている間に、映画にも登場するアディの父親は認知症になる。妻や息子であるアディ、そして殺された兄のこともすべて忘れてしまっているにも関わらず、虐殺の恐怖とトラウマは完全に心に染みついてしまっており、死ぬまでそれに囚われるのだろうと確信したアディは悲嘆する。
「アディは自分の子供たちを被害者家族であるという恐怖から脱却させるには、加害者たちに会うしかないと考えたのです。『AOK』用に7年間撮りためた加害者たちの様子を見て、復讐目的でも謝罪要求目的でもなく、落ち着いてゆっくりと話し合いにいけば、彼らが背負った重荷を降ろすことができ、加害者と被害者の関係ではなく、隣人としてともに生きていくことができるようになるのではないか、と言うのです」
オッペンハイマー監督は当時を振り返る。
「とても深く感動したのですが、絶対に無理だといいました。あまりにも危険でした。被害者家族が加害者と向き合うといことはインドネシア史上ありませんでしたし、加害者たちはいまだに権力の中枢を独占しています。
危険すぎました。私にとっても危険でしたし、撮影クルーにとっても、アディの家族にとっても危険でした」
「でも、一応その話をクルーのところに持ち帰り話し合いをしました。今では副大統領や殺人部隊の司令官は私のことを心底憎んでいますが、当時は『AOK』は出来上がっていたもののまだ上映はされていませんでした。そして、アディが会いたがっている殺戮者の最上位の司令官と私が近しい関係にあるということは辺りでよく知れ渡っていたので、彼らが激情に任せて私たちに手を出すことはないだろうと考えたのです」
そうしてこの命がけの撮影は始まった。撮影後、アディ一家は25人の協力者の助力を得て半年以上かけて、そうした殺戮者の息のかかった地域から引っ越した。そして、たまたま『英雄の日』にジャカルタで行われることになった『LOS』のプレミア上映で、彼は聴衆とTwitterユーザーの惜しみない称賛を浴びることになったのだ。
ちなみに、もはやインドネシアに入国することの適わないオッペンハイマー監督は、そのプレミアには(テレビ電話の)Facetimeを通じて参加するしかなかったという。

昨年11月10日(インドネシア「英雄の日」)にジャカルタで行われたプレミア上映会の様子。上映後に登場したアディは15分にも及ぶスタンディングオベーションを受ける。
(C)Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
(C)Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
映画では、アディは希望どおり次々と虐殺の加害者に会いに行く。兄を殺した実行犯、それを命じた司令官。殺戮者たちは明らかに罪悪感を抱いているが、それがアディへの懐柔に向かう人もいれば、脅しに向かう人もいた。そして皆一様に自分のせいではないと言い訳をする。動揺する加害者たちと、終始落ち着いて話をするアディの対比が強烈な緊張感を生む。
「虐殺を行った加害者たちは、一人残らず自分の行った殺戮が過ちだったということはわかっており、殺人の瞬間から罪悪感を抱いてます。問題は、彼らがその罪を背負っていく恐怖から逃れるために、つじつま合わせの物語を作り出すことです。そして自分たちが間違っていなかったということを証明するために、また新たな罪を犯して物語を強化するのです」
「罪悪感は、私たちが過ちを犯すことを抑制してくれます。でも一度罪を犯してしまうと、今度は罪悪感ゆえに積極的に悪を犯し続けることになるのです。最初の一線を越えないことが、本当に本当に大事なんです」
『AOK』と『LOS』の取材を通じ、人々や国家がいとも簡単に良心に嘘を塗り固め、悪を常態化させていくのかということを嫌という程見てきたオッペンハイマー監督は強い語調で語る。
「それは国家でも同じことです。だから、私たちが権力に対して批評的な目を向けることはとても大切なのです。為政者のいうことをうのみにするのではなく、本当に大丈夫なのか、なぜそういうことを言うのか、そのことによって誰が利するのかを常に批評的に問い続けなければいけません。それが民主主義を機能させるために何よりも大事です。批評的な思考(クリティカルシンキング)ができるようになる教育は何よりも大切です」

前作『アクト・オブ・キリング』と本作『ルック・オブ・サイレンス』を完成させたことにより、インドネシアへの入国が難しくなってしまった監督ジョシュア・オッペンハイマー氏。ハーバード大学を卒業し、ロンドン芸術大学で博士号を取ったインテリだが、命を張った撮影も辞さないハードボイルドな一面もある。
(C)Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
(C)Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
日本の事情にも詳しいオッペンハイマー監督は日本の現状に対しても危機感を示した。
「本来は自衛の範囲を越えて戦争をするということは、どんな国でも許されることではありませんが、実際には戦略的な理由や同盟上の関係で多くの国が行ってしまっています。もし日本がその一線を越えてしまったら、その後過ちを重ねていくかも知れません。
でも最初の一線を越えない限り、過ちは起き得ません。国民が皆批評的に物事を考えられない限り、その一線は絶対越えるべきではないでしょう」
凡庸な悪がいかに容易く常態化し、人々を苦しめ続けるのかを描いたこの映画が私たちに問いかける問題は多い。
(鶴賀太郎)
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