帯がカワイイ! 王朝和歌に入門して恋をはじめよう
池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》02『口訳万葉集 百人一首 新々百人一首』

池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》(河出書房新社)の第1期第8回配本は、第02巻『口訳万葉集 百人一首 新々百人一首』。和歌だ。

「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」それが和歌だ(あいつのツイートじゃないか)
池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》02『口訳万葉集 百人一首 新々百人一首』。解題=岡野弘彦+渡部泰明、月報=穂村弘+今日マチ子、帯作品=mina perhonen(minaのaはウムラウトつき)。歌人・岡野弘彦は釈迢空(折口信夫)の弟子。

帯がカワイイ! と思ったらやっぱりmina perhonenのデザインワークだった(minaのaはウムラウトつき)。
今巻の収録作は

『口訳万葉集』(1917)(折口信夫訳、上巻下巻Kindle)より203首(《現代語訳 日本の古典》第2巻『万葉集』の岡野弘彦の註を加える)
・藤原定家撰『百人一首』小池昌代新訳・釈
・丸谷才一『新々百人一首』(1999)(上巻下巻)より20首

古代人が降りてきた


『万葉集』は8世紀に編纂された、全20巻からなる歌集だ。
収録作の作者は天皇やお姫さまから無名の防人(さきもり)まで、ヴァリエーションに富んでいる。日本文学の中心が京都になる前の貴重な資料でもある。
折口信夫はすでに、本全集第14巻(レヴューはこちら→「女のいう通りに、女の喜ぶようにしてやった」宮本常一に学ぶ「村の恋愛工学」)に『死者の書』などの作品が収録されている。
「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」それが和歌だ(あいつのツイートじゃないか)
池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》14『南方熊楠 柳田國男 折口信夫 宮本常一』河出書房新社。解題・年譜=鶴見太郎、月報=恩田陸+坂口恭平、帯装画=高木紗恵子。

『口訳万葉集』はその折口の、まだ29歳で無名だったころの仕事。本巻での池澤夏樹の紹介文にもあるとおり、朝9時から晩10時まで折口が口述するのを、3人の友人が交替で筆記すること3か月で、約4,500首を訳しおろしたという。

休日なし換算で1日平均50首、食事休憩を1時間と見積もっても時速4首から5首、1首につき10-15分だ。『万葉集』には短歌だけでなく長い歌もたくさんはいっていることを考えると、ぞっとするような集中力だ。
しかも、辞書や参考書をいっさい使わなかったという。古代人が「降りて」あるいは「憑いて」いた状態だったに違いない。

池澤選に漏れた不倫ソングを敢えてご紹介


僕は『口訳万葉集』は中公文庫版『折口信夫全集』で読んだ。
「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」それが和歌だ(あいつのツイートじゃないか)
『折口信夫全集』第4巻『口訳万葉集』上巻(中公文庫)。1970年代から80年代前半の中公文庫は、自社出版物の文庫化のばあい、もとの版面を画像としてそのまま縮小していることがある。フランスのペーパーバックみたいに親本と同じ頁構成となっていて便利だが、漢字だらけだと目に優しくはない。

本書には203首が選ばれているが、今回は池澤さんが選ばなかった歌を敢えてここで紹介したい。池澤日本文学全集に倣って表記は新字、訳を新かな、ルビをひらがなとする(折口はルビをカタカナでつけるのだ)。
「巻第十四」の3472番。

人妻と、何故か其〔そ〕を言はむ。然〔しか〕らばか、隣りの衣〔きぬ〕の借りて着はなも

〔折口訳〕人妻だと言うので、怎〔ど〕うして、それを触ってはいけない、と言う理窟があろうか。若しそれが、ほんとうならば、隣りの着物をば借りて来て、着られない訣〔わけ〕だ。

……なんかこー、大川栄策の「さざんかの宿」とかチャットモンチーの「恋愛スピリッツ」、あるいは小川美潮の「ふたつのドア」みたいな不倫ソングで、せつないね。
「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」それが和歌だ(あいつのツイートじゃないか)
「ふたつのドア」を収録した小川美潮の名盤『檸檬の月』(1993)。

古代のハナモゲラ歌謡を発見


これも今回の池澤選から漏れてしまったが、「巻第十六」には〈意味のない歌。二首〉が収録されている(3838と3839)。
舎人(とねり)親王(676-735)が、
「ワケわかんない歌をここで即吟した奴に賞金と賞品をやるよ!」
と言ったので、安倍子祖父(あべのこおじ)が作ってみごとにご褒美を獲得した2首だそうな。

吾妹子が額に生ふる、双六の特負〔ことひ〕の牛の、鞍の上の瘡〔かさ〕
我が夫子〔せこ〕がたぶさきにする、つぶれ石の吉野の山に、氷魚〔ひを〕ぞ下れる

意味はわからないが、それを言うなら僕の日本語力では『万葉集』のほかの歌も充分意味がわからない。
この2首には折口も訳をつけなかった。当時のハナモゲラみたいなものだろうか? 安倍子祖父という人はこのハナモゲラ和歌以外の記録がない人なのかもしれない。

これよりは、
みじかびのきゃぷりてぃとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ  大橋巨泉
のほうがまだ意味がわかる。

和歌を読むには案内人が必要


和歌のこういう側面をさして、「機会詩」であると言われる。つまり和歌の作者は、ある特定の状況において、しばしば権力者やファンにリクエストされて、作品を作る。
大喜利みたいなものだ。和歌は、発表時の周辺状況にかなり依存した、きわめてハイコンテクストな分野だといえる。

近代以前の文学作品を読むときに障碍となるのは、当時の読者が持っていた共通の諒解事項を、現代の僕らは持っていない、ということだ。
おまけに和歌は、特定の先行作品(和歌だけでなく漢詩も)を踏まえることがある。僕は教養が圧倒的に足りない。

素朴な万葉集ならまだしも、勅撰和歌集の時代に入ると、和歌はちょっとした教養比べみたいなところがある。ウェブ掲示板の書きこみやTwitterのツイートでも、人は、
「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」
と思って書く。それと同じだ。

そこで短詩型では、「評釈」とか「鑑賞文」というものが重要な役割を果たすことになる。幸田露伴の『評釈猿蓑』や大岡信の『折々のうた』など、それ自体が文学作品である。本巻では、詩人・小池昌代と小説家・丸谷才一の評釈・鑑賞文が読める。

百人一首かるたは出会い系パーティ用コンピレーション


短詩型(和歌や近代短歌、俳諧や川柳、現代俳句など)は、読み手の解釈の仕事が露骨に大きい。だから、まず目利きが「選(撰)」をする。

その「ベスト盤」のなかでももっともコンパクトなコンピレーションは、今日まで続く大ヒットとなった。藤原定家(1162-1241)撰『小倉百人一首』がそれだ。

下の句の札を取る「百人一首かるた」は競技人口も多い。競技かるたは末次由紀の漫画『ちはやふる』(講談社Kindle)でさらに知られるようになった。
「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」それが和歌だ(あいつのツイートじゃないか)
『小倉百人一首 歌かるた』標準取札・読札セット(大石天狗堂)。

尾崎紅葉『金色夜叉』の冒頭で、若い男女が正月にかるた会をする場面があるが、かるた会はある時期までは盆踊りと並ぶ「出会い系」イヴェントだった。
読札に書かれた和歌に恋の歌が多いのは、出会い系パーティの目的に合致している。なんだろうね、男女混合のパーティでラブソングのコンピレーション『Sweet Love』をエンドレスで流して発情を促す、みたいな感じですかね。
「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」それが和歌だ(あいつのツイートじゃないか)
『Sweet Love Ultimate Love Songs』(5枚組ボックスセット)。ダイアナ・ロス、ナタリー・コール、ホィットニー・ヒューストンなどをフィーチャーし、〈彼との(彼女との)ゴールインまでのあらゆる場面(シーン)を盛り上げるのに一役買ってくれる頼れる味方です〉とのこと。

百人一首が現代詩に変身


僕はこの3月末に、この全集をめぐる池澤夏樹さんと小池昌代さんの公開対談(西宮市)を聞きに行った(余談だが、その席で、本全集の第26〜28巻『近現代作家集』に村上春樹作品が収録されることが明かされた)。そのなかで小池さんが、和歌の現代語訳がいかに難事業であるかを痛感したと語っていたのが印象深い。

小池さんの手によって、『百人一首』は多行表記の「現代詩」に変身した。

98 風そよくならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける  従二位家隆(藤原家隆、1158-1237)
の小池訳はこうなっている。

 楢の葉を、風が揺らしている
 ここ御手洗〔みたらし〕川の夕暮れは
 ふと 秋が来たかと錯覚させる
 けれど川原では
 六月のみそぎが行われていて
 あれこそは 夏のしるし
 まだそこにだけ
 夏が残っている

ゆっくり読んでみるのがいい。なんなら、二度三度戻って読み直すのもいい。
詩は読み手の時間を変容させるためにある。
鑑賞文は、小池さんによる日本語詩歌入門としても機能する。

〈日本語では、小さな助詞が大きな働きをするが、短詩型の場合、それが一層、顕著である。小さなスペースのなかで、言葉の流れや方向が変わり、特別のニュアンスが加わる〉(『百人一首』39参議等作の釈)

丸谷才一が選んだ新しい百人一首


室町幕府第9代将軍足利義尚の撰による『新百人一首』(1483)というものがあるらしい。
丸谷才一は1999年に、その向こうを張る形で、『新々百人一首』を刊行し、評釈をおこなった。本巻では池澤夏樹が20首、そのなかから選んでいる。
「はしがき」は本巻に収録されていないが、その〆がかっこいい。

〈いつもと同じやうに和田誠さん装釘の本が出る。ジョイス『ユリシーズ』のときなど、美しすぎて見惚れてばかりゐて、などとぼやく向きもあつたと聞くけれど、それで一向かまはない。子供や孫が読めばいい。何代たつても滅びない百首をわたしは選んだ〉
「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」それが和歌だ(あいつのツイートじゃないか)
丸谷才一『新々百人一首』上巻(新潮文庫)。カヴァー=和田誠。上巻には「はしがき」と林望との対談、下巻には俵万智との対談を併録。

かわいい装幀だよなあ、植物と鳥と……って、ん? やっぱりこれも植物モティーフの反復パターンだ。ひょっとして、これを意識して《日本文学全集》の帯をミナにしたのか?

舒明天皇(592?-641)から肖柏(1443-1527)までの100首、そのセレクトの良し悪しを云々できる教養は僕にはない。
とにかくこの『新々百人一首』のなかで、丸谷が動員している和歌・漢詩・神話・民俗学・政治史・農耕その他の知識には頭が下がる。

とくに二条后(にじょうのきさき、藤原高子、842-910)の歌(3番)のなかの〈うぐひす〉、藤原俊成(1114-1204)の歌(35番)のなかの〈七夕〉、というひと言から、幅広い資料を博捜して、歌の解釈を豊かにしていく手順は、TVの「交通警察密着24時」的な番組で見た鑑識課のような手際。ちょっとドキドキする。

王朝和歌(とくに恋歌)の美意識が日本文学史を貫いている、というのが丸谷の日本文学史観である。この『新々百人一首』を読むということは、いわば、その史観を実地に体験できる「丸谷文学史テーマパーク」に入場するということになる。

本全集に抄録されている作品については、僕は全体を読んで書くことにしている。だから今回も、本巻のレヴューのために新潮文庫版の『新々百人一首』を初めて読んだ。時間にやや追われて読んでしまった。そのことをちょっと悔やんでいる。もう一度最初から、今度は毎日少しずつ読んでみよう。
そう思わせるくらい、『新々百人一首』は、王朝和歌への手引書として、僕という和歌音痴の読者に優しかった。和歌への引け目というか苦手意識が、だいぶ軽くなったと思う。

日本文学の美意識の根幹・王朝和歌に入門して、さあ恋をはじめましょう。

次回は第10回配本、第21巻『日野啓三 開高健』で会いましょう。
「俺の発言がなにを踏まえているかわかる奴がきっといる」それが和歌だ(あいつのツイートじゃないか)
次回配本21巻『日野啓三 開高健』。ヴェトナム取材体験のあるふたりの芥川賞作家。

(千野帽子)
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