【地位を捨てテニス界へ】
曾祖父が阪急電鉄や宝塚歌劇団などで知られる阪急東宝グループの創業者、父親は東宝の元代表取締役会長とまさに「華麗なる一族」のもとで1967年に生まれます。そんな環境ですので、修造も慶應義塾幼稚舎に入学します。そのまま人生のエスカレーターに乗っかっていれば、必ず成功間違いなしの人生イージーモード状態でした。
しかし、修造はテニスのためにそのエスカレーターから自ら降ります。慶應義塾高を辞め、周りの反対を押し切ってテニスの名門、柳川高へ編入したのです。そこで頭角を現してインターハイ3冠を達成した後、海外へと渡りプロ転向を果たします。
【波乱万丈なプロ生活】
1988年、プロ転向後わずか3年で世界ランキング100入りを果たし、修造は世界レベルの選手として注目されました。しかし、両膝の半月板損傷、左足首のじん帯を断裂するなどの大けがをし、ランキングを大きく落してしまいます。
そんな逆境から立ち上がった修造は復活し、1992年に自己最高となる世界ランキング46位に。これは錦織が更新するまで日本男子最高位でした。このまま勢いに乗るかと思われましたが、再びアクシデントが襲います。ウイルス感染症になってしまい、長期休養を余儀なくされたのです。これによってランキングはまた大きく下がってしまいました。
【1995年 ウィンブルドンベスト8の快挙】
感染症以降、ランキング100位圏外で苦しんでいた修造ですが、1995年のウィンブルドンに出場します。本来ならば予選から参加しなければならなかったのですが、不出場者が出たことによる幸運でした。
いままでグランドスラムでは2回戦突破もなかった修造ですが、ここで快進撃を見せます。なんと日本人では佐藤次郎以来となる62年ぶりのベスト8入りを果たしたのです。
ベスト4進出をかけた試合では後にウィンブルドン7度の優勝を果たすピート・サンプラスと接戦を繰り広げますが、惜しくも敗れてしまいます。修造はサンプラスから第1セットを取り、第2セットも3ゲームスオールから0―40で3つのブレイクチャンスがありました。結局、これを凌いだサンプラスに流れが行って敗れてしまったのですが、もし修造がブレイクをしていればもしかしたら勝ったかもしれません。
【ネガティブだった? 昔の修造】
ウィンブルドンベスト8になりましたが、常に怪我に泣かされ続けた現役生活でした。ベスト8入りした次のグランドスラム(1995年の全米オープン1回戦)でも、試合中に痙攣をおこして途中棄権してしまいます。
そんな数多くの逆境を経験した当時のインタビューを見ると、修造は意外とネガティヴであることが分かります。敗戦後のインタビューでは「死んでしまいたい」と語ったこともありました。
当時の修造を見たスポーツ心理学の権威は「存在感が薄い」「マイナスの感情を外に出しすぎる」「自分に対する評価が悲観的すぎる」「紳士すぎるからコートでは強いファイターなれ」などと言葉を残しています。
しかし、そんな修造を変えたのはこのスポーツ心理学の権威でした。
今の熱すぎる修造の根源となっているのはこのスポーツ心理学の権威との出会いなのではないでしょうか。
(さのゆう90)
(「松岡修造―九一九日の闘い」)
(「(日めくり)まいにち、修造!」)
