最近まで『ヨルタモリ』にレギュラー出演し、昨年は主演映画『紙の月』で日本人としては11年ぶりとなる最優秀女優賞を受賞するなど絶好調の宮沢りえ。しかし彼女の人生はとても波乱に満ちたものでした。


【伝説の写真集『Santa Fe』】


それは10代の頃からでした。17歳のときには『ふんどしカレンダー』、18歳のときにはヘアヌード写真集『Santa Fe』と話題作を相次いで発売します。特に『Santa Fe』の方は人気絶頂時でのヌード写真集ということで社会現象となり、写真集としては現在も歴代1位の150万部の大ベストセラーとなりました。
これらの仕掛けの陰にはマネージャーを務めていた母親"りえママ"の存在がとても大きかったようです。一卵性母子とも言われたように常に行動を共にし、宮沢りえに対しては「ステージママの操り人形」との批判も聞かれました。

【貴花田と婚約もすぐ破局】


1992年の11月には、貴花田(現在の貴乃花親方)との婚約を会見で発表します。当時、国民的人気を誇っていた2人の婚約は「世紀のカップル誕生」と呼ばれ、週刊誌やテレビなどでかなり大きく報道されていました。しかしわずか2か月後、婚約解消を発表してしまいます。
この破局の原因になったのもやはり"りえママ"の影響によったものが大きかったそうです。美川憲一は後に、"りえママ"に頼まれて宮沢りえに貴花田と別れるよう説得したと語っています。二人を別れさせた理由はもし貴花田と結婚したら、相撲部屋のおかみさん仕事で女優業がほぼ出来なくなってしまうからだと言われました。

【自殺未遂と激やせ】


そして1994年9月、りえは自殺未遂騒動を起こします。京都のホテルで歌舞伎役者の故・中村勘三郎(当時は中村勘九郎)と会った後、同ホテルの別室で手首を切り、病院へと運ばれます。真意はいまだ不明ですが、当時りえと勘三郎は愛人関係にあり、そのもつれから自殺未遂を起こしたのではないかと推測されます。


このような一連の出来事でりえは病んでしまったのか、1995年ごろに「激やせ」と各メディアで報じられています。確かに当時の写真を見るとかなり手足が細くなっており、拒食症だったのではという声もあります。

その後もマスコミからバッシング報道が相次いだこともあり、アメリカのサンディエゴへ移住するなど、一時期は芸能活動休止状態となりました。しかしその後芸能活動を再開し、再び女優としての評価を高めています。
近年も2009年に実業家と結婚し、出産したものの2012に離婚するなど世間を騒がすこともあります。しかしそれらの出来事も演技のカテにし、女優として高い評価を残し続けるのではないでしょうか。

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