「400戦無敗」ヒクソン・グレイシーの商売人としての実力は? アパレル進出、CMやバラエティ出演も
筆者私物の『PRIDE1』ポスター

1997年10月に行われた総合格闘技イベント「PRIDE1」で、プロレスラー・高田延彦を破ったことにより、その「最強幻想」がさらに爆上げしたヒクソン・グレイシー。
「400戦無敗」をキャッチフレーズに当時の格闘技界のトップに君臨した、柔術家にして総合格闘家である。

「この戦いを見終わったら、もう20世紀も、終わっていい」
そんな刺激的なキャッチコピーが踊った世紀の一戦だけあって、試合の前も後も報道は加熱状態。専門誌の枠を飛び越え、一般誌やワイドショーなどもこぞって取り上げたため、実際のファイトを見たことがなくても、ヒクソンの名前は知っている方が多かった。
「最強=ヒクソン」の方程式が完全に世間に浸透していたさなか、ヒクソンはビジネスの勝負に出ている。格闘家としては超一流だったヒクソン、こちらの結果はいかがだっただろうか?


ヒクソンブランドのTシャツが日本中を覆い尽くした!?


「400戦無敗」ヒクソン・グレイシーの商売人としての実力は? アパレル進出、CMやバラエティ出演も
筆者私物のヒクソン・グレイシーフィギュア

プロレス・格闘技ブームが盛り上がる1998年、ヒクソンはその名もズバリの「ヒクソン・グレイシー」ブランドを立ち上げ、アパレル界にも進出している。
トレードマークのトライアングルと「RICKSON GRACIE」ネームが基本のシンプルデザイン。トライアングルの3辺は「MIND」「BODY」「SPIRIT」を意味し、それぞれが他の要素を助け合うという思想を表しているという。
カラフルなイラストや派手なロゴを使ったファングッズとしてのアパレルではなく、あくまでシンプルで普段使いができるブランドとしての確立を目指し、ヒクソンの妻であるキム夫人がディレクションを行うなど、話題性も十分だった。

この辺り、後に新日本プロレスの蝶野正洋がドイツ人の妻、マルティナ夫人と共に立ち上げたファッションブランド「アリストトリスト」の先駆けといえるかもしれない。

プロレス・格闘技Tシャツは、試合会場や専門店などの限られた場所でしか買えないのが普通だったが、ヒクソンブランドは一般層をターゲットにした戦略はもちろん、その旬の勢いも手伝って大手量販店にも進出。
当時、引退特需で大ブレイクしていたアントニオ猪木関連のライセンスTシャツと並んで、「マックハウス」などの全国展開するカジュアルショップに、ヒクソンブランドのTシャツやスウェット、ジャージなどがあふれていたと記憶している。

ヒクソンが高田延彦のリベンジを返り討ちにした「PRIDE4」後のタイミングで、元『格闘技通信』編集長にして、後にK-1プロデューサーになる谷川貞治氏は、当時の格闘技界の状況をこう評している。

「一般的に見れば、やっぱりヒクソン・グレイシーなんだよ。たとえば広告代理店の人にしろ、テレビ局の人にしろ、全然格闘技に興味のない人にも『ヒクソンは一番強いらしいぞ』というイメージを植えつけたでしょう」

そう、「最強=ヒクソン」のイメージ戦略が一人歩きした時点で、ヒクソンブランドの成功は約束されていたのである。



「PRIDE4」の高田戦の直後、ヒクソンがまさかの敗北をしていた!?


98年秋、ヒクソン・グレイシーが日本で敗北しているのをご存じだろうか?
……といっても、ゲームのCM内の話。
それは、セガがセガサターンの次世代機として発売したドリームキャストの第1弾ソフト「バーチャファイター3tb」のCMだ。
格闘ゲームの新時代を切り開いた、ポリゴンで描かれたキャラクターによるリアルなアクションが特徴。ゲームセンターでは対戦プレイに行列ができたほどの人気シリーズだ。
CMでは、ヒクソンがゲームキャラにボコボコにされ、鼻血を流して座り込み、主役ポジションのキャラ・晶(アキラ)に「10年早いんだよ!」と決めゼリフを吐かれる内容だった。

セガは、「ゲームを知らない一般の人がゲームに興味を持つようなCMを仕掛ける」という戦略の元、ヒクソンを起用したという。
ゲーム画面以上にヒクソンをフィーチャーした内容だったことからも、この時点でヒクソンの知名度や人気が絶大だったことが伺えよう。

「ヒクソン・グレイシー負ける」の見出しで、スポーツ新聞や雑誌などを賑わしたことも、そのネームバリューの高さを物語るはずだ。

雑誌『CM NOW』によると、「実在する人物に負けるのは絶対イヤだけれど、バーチャルなキャラクターならいいよ」と、快く出演をOKしたとのこと。
最強のヒクソンが負けるからこそ、インパクトある内容となった。
高田戦のファイトマネーが1億円超えともいわれたヒクソンだが、このCMでは一体いくらが提示されたのだろうか……。
ともかく、ここでも「最強=ヒクソン」の方程式で、見事ビジネスチャンスを掴んだようである。


高田延彦、船木誠勝に続いたのは、まさかのとんねるず石橋貴明!


高田延彦との2度の対決の後、2000年5月にはパンクラスのエース・船木誠勝を下したヒクソン・グレイシー。

プロレス界のツートップを撃破した男が次の対戦相手に選んだのは、まさかのお笑い芸人だった!?
2001年1月、日本テレビ系の人気バラエティ番組『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』で、石橋貴明と特別試合を行ったのである。
もっとも、「ヒクソンは手を使った技は禁止、足技のみOK」「石橋はマウントポジションを奪えば勝利」という超ハンデキャップルールだったわけだが。
普段、ルール面を含めてガチガチの交渉術を見せ、絶対に妥協を許さないヒクソン。試合に勝つことよりも、試合をさせるほうが難しいといわれていただけに、バラエティ番組とはいえ、実現したこと自体が奇跡と呼べるかも知れない。
もっとも、格闘技団体よりもギャラがよかったからかも知れないが……。
このころは、「グレイシーハンター」桜庭和志戦や、「柔道王」にして「暴走王」小川直也戦が噂されており、その試合に向けて再び知名度アップのプロモーションを仕掛けていた可能性もある。

素人芸人とのイージーファイトで、大金と人気をゲット。ヒクソンの商売人としての嗅覚、ここに極まれりだ。

vs高田延彦戦を超える試合が期待されていたヒクソンだったが、この時期、不運にも長男のハクソン(ホクソン)・グレイシーを亡くしてしまう。
そのショックも大きく、格闘技界の表舞台から遠ざかり、結果として船木戦が現役最後の試合になってしまった。
もし、ヒクソンが現役を続けていたら、格闘技シーンはどうなっていたのだろうか。
また、前述の『CM NOW』には、「彼(ヒクソン)はアクターズスクールにも入っているそうで、ご覧の通り、芝居も大変うまかった」ともあった。

その抜群の知名度を活かして、俳優の世界で活躍する未来もあった……のかも知れない!?
(バーグマン田形)