この時代の西武黄金期といえば、広岡監督と森監督が指揮を執った時代であり、特に森監督時代は凄く、在籍9年のうち、なんと8回もリーグ優勝(日本一は6回)している。中でも1990年から1994年にかけて達成したリーグ5連覇は、いまだに破られていないパ・リーグ記録だ。
そんな黄金期のスタメン選手たちはやはり豪華! 秋山・清原・デストラーデのAKD砲をはじめ、ミスターレオこと石毛、守備職人の辻など、当時を代表するスター選手が揃っていた。それでは、伝説のV5メンバーを見てみるとともに、彼らが残した素晴らしい年間成績にも目を向けてみよう。
【4人が監督経験者! 豪華だったスタメン陣】
■辻初彦(二塁手)
鉄壁の守備で、黄金期の西武に貢献したリードオフマン。その巧みなグローブさばきは、自身に8度のゴールデンクラブ賞をもたらした。ちなみに、二塁手としては歴代最多の記録でもある。西武在籍時に打率3割を超えたシーズンは2度であるが、右打ちやバント、走塁が得意であり、相手にとっては非常に嫌らしいバッターだった。
【打率.319 本塁打3 打点31 盗塁14(1993年)】
■平野謙(右翼手)
黄金期のスタメン打者の中では唯一、セ・リーグからの移籍組。とはいえ、かつて所属していた中日では既にレギュラーとして活躍しており、犠打でつなぐ野球と守備力には定評があった。
西武移籍後は、5年連続最多犠打を記録し、6年連続ゴールデンクラブ賞も受賞している。また、肩の強さも相当なもので、年間捕殺記録にあと2つと迫る「21」の捕殺を残したシーズンもあった。秋山が組んでいた右中間守備は、史上最強とも呼ばれる。
【打率.281 本塁打3 打点41 盗塁13 犠打50(1991年)】
■秋山幸二(中堅手)
3年連続40ホーマーを記録しながら、走っては年間51盗塁も残すという”走攻守3拍子”揃ったスーパープレイヤー。1989年には、当時5人目となるトリプルスリーも達成している。デストラーデが入団するまでは、ON砲ならぬ「AK砲」として、清原とともに本塁打を量産。日本シリーズでは「バック宙ホームイン」を見せるなど、名パフォーマーとしての顔も持っていた。
【打率.256 本塁打35 打点91 盗塁51(1990年)】
■清原和博(一塁手)
1986年に入団した清原は、ルーキーイヤーから3割30本以上を達成し、そこから11年に渡り西武に在籍。まさに黄金期の申し子であり、またこの時代の西武を象徴する人物といっても過言ではない。主要タイトルである3冠を手にすることはなかったものの、日本シリーズやオールスターといった大一番での存在感は際立っていた。
【打率.307 本塁打37 打点94(1990年)】
■オレステス・デストラーデ(指名打者)
デビューイヤーとなった1989年は、6月後半からスタメン入りを果たし、最終的には32本塁打を記録。これは、王貞治が持つ年間55本塁打(当時の日本記録)を優に超えるペースでもあり、球界に強烈なインパクトを残した。翌年以降もホームランを打ち続け、1990年から3年連続でホームラン王に輝いている。
また、3番秋山、4番清原、5番デストラーデのクリーンアップ「AKD」は、黄金期の代名詞でもあった。
【打率.263 本塁打42 打点106(1990年)】
■石毛宏典(三塁手)
広岡監督時代から既に遊撃手のレギュラーとして活躍しており、黄金期の全てに渡り携わった数少ない1人。
キャプテンとしてチームを引っ張っていた石毛はミスターレオの愛称を持つ。
【打率.306 本塁打15 打点53(1993年)】
■安部理(左翼手)
シーズンを通してフル出場したことはないものの、多いときで90試合前後はスタメンに名を連ねていた。レフトは黄金期で唯一、レギュラーが定まらなかったポジションでもある。そのため、笘篠、大塚光や吉竹などの選手とポジション争いを演じていた。
【打率.348 本塁打3 打点33(1994年:規定打席未到達)】
■伊東勤(捕手)
西武一筋22年。実にそのうち20年近くに渡って正捕手の座を務めた。投手王国といわれた西武の投手陣も、彼の活躍なしでは語ることができないだろう。巨人V9の捕手でもある森監督は、ヘッドコーチとして伊東の入団当初から指導にあたっていたため、いわば恩師のような存在。
【打率.281 本塁打11 打点43(1990年)】
■田辺徳雄(遊撃手)
主に下位打線で定着していた田辺だが、自身のブレイクとなった1989年に、ブーマーと首位打者争いを演じている。一方の守備でも着実に成長を遂げて、結果的には石毛から正ショートの座を奪った。森監督からも「今後、10年間は遊撃守備でチームを支えられる」といわしめたほど。
【打率.302 本塁打13 打点63(1992年)】
【先発とリリーフにも役者ぞろい!】
■工藤公康
最多勝こそないが、最高勝率3回、最優秀防御率4回と投手王国西武の中でも際だった成績を残した。工藤の背番号「47番」は、いまや球界の左腕の代名詞でもある。
【16勝3敗 防御率2.82 奪三振151(1991年)】
■渡辺久信
MAX150kmの速球を主体に、時としてスライダーやカーブを織り交ぜる力投型の投手。奪三振を取れるタイプだったが、被弾を浴びるケースも多かった。それでも、最多勝利投手に3回も輝いた実力派。
【18勝10敗 防御率2.97 奪三振172(1990年)】
■郭泰源
台湾出身の快速球右腕は、西武入団前に行われたロサンゼルスオリンピックの予選で、アメリカ代表を相手に158kmを記録し、オリエンタル・エクスプレスの愛称を世界に知らしめた。黄金期には、先発ローテーションの一角として稼動し、MAX156kmを計測。
【15勝6敗 防御率2.59 奪三振108(1991年)】
■潮崎哲也
V5の幕開けとなった1990年に入団し、ルーキーながら大車輪の活躍を果たしたセットアッパー。サイドスローから繰り出す落差約50cmのシンカーは魔球と呼ばれ、相手打者を大いに苦しめた。
【6勝3敗 防御率1.18 奪三振64 セーブ8(1993年:規定投球回数未到達)】
西武の野球で特徴的だったのが、スタメンが固定されていたこと。打者陣はレフト以外がレギュラーで固定されており、相手にとっては非常に驚異的だった。一方の投手陣も、今回紹介した以外に、石井丈裕・渡辺智男・新谷博・鹿取義隆などもおり、役者がそろっていた。
彼らが同時期にチームメイトとして戦い、結果的にV5も達成したこの時代の西武ライオンズは、間違いなく「史上最強チーム」のひとつだろう。
(ぶざりあんがんこ)
「埼玉西武ライオンズ黄金投手陣の軌跡 (B・B MOOK 953)」