
「最高傑作」は盛りすぎ!?
藤田 筒井康隆『モナドの領域』は文芸誌『新潮』に掲載され、たちまち品切れ、重版となった話題作です。いちおう言っておくと筒井康隆は『時をかける少女』の原作者で、今81歳。
物語としては、この世界に遍在している神のようなものが、人間に乗り移ってくる。哲学・神学の論争が作中で行われ、ライプニッツのモナド論を援用し、可能世界を扱っている。
可能世界は存在し、それは小説の世界や、一人一人の想像や夢も含まれる……と、これは筒井康隆が長らく描いてきた世界観であって、フレドリック・ブラウン『発狂した宇宙』や、ディックの『虚空の眼』の影響ですよね。
『新潮』の表紙のキャッチに「最高傑作にして、おそらくは最後の長編」って書いてあるけど、「最高傑作」は嘘だと思いますよ。博士論文を筒井康隆で書き、筒井康隆論『虚構内存在』という本を書いた者として、これは断言しなければならない。『虚人たち』とか『残像に口紅を』の方が面白い。
飯田 自分で最高傑作と本当に言っているのだとしたら「筒井さん、ボケちゃったのかな……?」と思ったけども。筒井康隆のパブリックイメージは「過激ではちゃめちゃでおもしろい」+「文学理論を使って書く理論派」だと思うんですが、今回はどういう位置付けというか味付けなんでしょうか、藤田先生。
藤田 「過激・はちゃめちゃ」は控え目ですね。むしろ、世界がめちゃくちゃにならないようにしようとしている神が主人公。で、今回は、文学理論を使うというよりは、哲学と神学を使っていますね。ハイデガーとかトマス・アクィナスが出てくる。
飯田 『唯野教授』あたりまで(90年代前半くらいまで?)は読んでいたというひとは多いと思うんですが、2000年代以降、どういうものを書いていたのか解説いただけないでしょうか。
藤田 「言葉狩り論争」で一度断筆し(説明すると長いので、詳しくはググってください)、それを解除したあとは、「わざとボケた?」みたいな方向性の作品(『壊れかた指南』)を書く一方、『バトルロワイヤル』の老人版パロディ『銀齢の果てに』とか、涼宮ハルヒのパロディ『ビアンカ・オーバースタディ』をか、わかりやすい作品を手掛けてきています。80年代には文学理論を駆使して、実験小説、前衛小説を書いていたのですが、その成果を、「わかりやすく」提示し直す方向性の作品群がありました。
実験的な方向に突っ走って読者がいなくなるのがいいのかどうかという葛藤は、『巨船ベラス・レトラス』の中で作家同士が喧嘩して議論しているので、読んでみてください。端的に「やっても売れないよね」みたいな絶望感も染みていて、なかなかいいですよ。
それで、前の長編『聖痕』と今回の『モナドの領域』は、「神」や「宗教」の問題に本気で突入していっていて(災害と死と救済の問題が関係します)、また少し位相が変わった感じがしますが、「モナドの領域」は、今までの筒井康隆の様々な作品に言及しつつ、考えの核心部分を、わかりやすく再提示した作品であると考えられます。
「GOD」はフィクションの世界やキャラにどう責任を取るか、の象徴
飯田 文学史上名高いサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』が神を待っている話だとはつとに指摘されているところですが、この作品だとGODが降臨しちゃう。アホなGODが。
藤田 そうですね。神というのは、小説において、作者と類比される存在なんですよ。Creatorですからね。作中世界の登場人物は、みんな、作者の被造物。
小説家として、フィクションの世界やキャラクターにどう接するか、どう責任を取るかという問題を、筒井康隆は一貫して問題にしてきました。その最新版の応えが「モナドの領域」であると考えられます。今までと違うのは、GODが「全部愛している」と言うところです。作ったものは、悪であれ、矮小なものであれ。じゃあ「戦争」や「災害」も愛することができるのか、美しいのか、という重大な問題まで踏み込んでいる。
筒井康隆はフロイトを理論的に使っていて、人間が、正当性や正義や倫理などを用いながら、その背景にいかにいやらしい動機や感情を隠しているのかを暴くようなブラックユーモアが初期先の特徴で、本作でも人間の心理のえぐり方は容赦ないんですよ。でも、そこも含めて、愛しているんだ、美しんだ、と言ったところは、筒井ファンとしては、「あ、最後に、こう来たか」と、驚きましたよ。
……ただ、これを単独で物語として読まれて、飯田さんは、いかがでしたか? 正直、これまでの筒井作品の文脈がないと、なんのことやらサッパリ、という作品ではないかと思うんですが。
飯田 いちおう僕も代表作はひととおり読んでいるんですけど、今回は「それってそんなに大事な話ですかね」と思っちゃって、あまり乗れなかった。単純に「物語としては中途半端では」という印象が……。
藤田 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を本作は参照しているわけですが、埴谷雄高、笠井潔、西尾維新らに脈々と受け継がれている、「観念・思想バトル」の小説でもあるわけですよね。
可能世界、平行世界ものは、ゼロ年代以降のサブカルチャーで、ぼくらは腐るほど観たり読んだりしていますしねぇ……。この、現在隆盛しているサブカルチャーでよくあるテーマに、筒井康隆が介入してきたと考えるといいのかもしれない。
ただ、「モナドの領域」のGODという(虚構内)存在がちょっと特異なのは、これは、あらゆる価値観・理念・イデオロギーも罪と罰も相対化してしまう視点だということです。
それって、日本SFで、小松左京、星新一、筒井康隆らが追及してきた、この世界そのものの価値観を相対化して見る視点なんですよね。だから、ある意味、かつての日本SFが持っていた人類そのものを相対化してしまう視線を、現在に再提示している側面があるということは、言っておいた方がいいかなと思います。
この現実がたとえくだらない作り物でも愛する、という覚悟
飯田 ジョン・ケージの本に神秘思想家のマイスター・エックハルトの問答が引かれていて、僕はそれがすごい好きなんだよね。「神は善なのに、なぜ悪を作られたのでしょうか」「話をおもしろくするためだ」……っていうものなんだけどw
つまり何が言いたいかというと、悪しき被造物も肯定するというのは、わりとある発想なんじゃないでしょうか。
藤田 テリー・ギリアム監督の『バンデッドQ』で、サラリーマンみたいな神に「なんで悪があるんですか」って訊いたら、「自由意志のためだ」って答えるのも、ぼくは好きですよ。
で、GODを今描く意義なんですが、本作は、歴史認識問題とか、テロとか、冤罪問題とかを扱っていますよね。本当の「事実」「現実」は、GOD以外は認識できない。
飯田 すみませんが、エキサイトの読者にわかるように説明してくれます?w
藤田 要するに、人間は、主観の中にしか生きておらず、「現実」や「真実」だと思っているのも、主観なんですよ。そのそれぞれの主観を持った人間が、たくさんいる。それは、世界がいっぱいあるのと同じですよね。
飯田 主観の数だけ世界がありますよ、と?
藤田 その、それぞれの主観にとっての「世界」や「現実」の違いで、色々な争いや戦争やテロが起きているけど、GODの視点から見ればそれはくだらんドタバタにすぎないよ、っていう諦念だと思いますよ。この世界や人類そのものが、ブラックユーモアみたいなもので、だけど見捨てるんじゃなくて、愛する。それは、けっこう覚悟がいる気がします。
飯田 なるほど。読んでいて「これが本当に『最後の長編』になるのだとしたら、なんでこの題材を選んだんだろう?」というのがいまいち附に落ちなかったんだよね。今の藤田解説を聞いて少し理解できてきた……けど過去の筒井作品の文脈がわからないと、意味わかんないよ、それはw
藤田 いやぁ。
だから、最高傑作というよりは、筒井康隆の生涯のテーマを、非常にわかりやすく噛み砕いて、現代に伝えてくれているものだと受け取るといいかと思います。
「最高傑作」の謎が解けた!
飯田 往年のファンが感慨深く思ってるってことでしょ? 高校生とか大学生が読んでピンとくる話ではないよね。よくもわるくも。
藤田 でも、ある部分では、平行世界を救う、とか、キャラクター(虚構内存在)への愛とか、現代のオタクカルチャーを享受している人たちにも通じやすい内容ではないかと思いますよ。『ビアンカ・オーバースタディ』で、ライトノベル的な内容・文体を意図的に採用したわけですが、本作も現代日本の若い人に向けて書こうという意気込みを感じますよ。
飯田 じゃあ、筒井康隆未読の若者に対して「先にこれ読んどけ」的なものがあれば、2、3オススメしてください。
藤田 『虚人たち』『残像に口紅を』『原始人』。初期なら『東海道戦争』。現実が、現実ではなく虚構になってしまった、という感覚を先駆的に描いた作家なので、現代に改めて読む価値があると思います。
飯田 ……ん? あ! わかったぞ! 「たとえクズでも愛するぞ」というメッセージが込められた作品だから「最高傑作」というキャッチはそういう意味での肯定と取るべきだったんだよ! どれだけつまんなくても創造物である以上、これも最高傑作!w
藤田 GODは、創造物は、すべて愛するわけだからねww とすると、キャッチコピーは、真実だったわけですね! 謎が解けたw
まぁ、でも、ぼくはGODではないので、正直に言いますが、「最高傑作」ではない。もっといい作品はいっぱいあります!