高田純次をお笑いタレントとして見たとき、「コーナー冒頭の"ツカミ"のうまさ」、「"テキトー"とも評される相手との距離の取り方」が特徴的な芸風として挙げられる。だが、秋にはじまった「じゅん散歩」の高田純次の味わいは少し違う。
もちろん、細かいボケをとっかかりに随所に笑いは織り交ぜるし、パッと見る限りではバラエティ番組とそう変わらないような振る舞いも多い。だがこの番組での高田純次は"笑い"を目的にするのではなく、コミュニケーションツールとして、とても繊細にチューニングしている。
すべてのメディアは「じゅん散歩」に学べ

一般にタレントは、人との距離のとり方はうまいし、その知名度も手伝って取材もうまい人が多い……が、高田純次が「じゅん散歩」で見せる取材力は別格だ。芸人すらも舌を巻く"笑い"の能力すべてを、「町と人の魅力を紹介する」という番組のミッションのために使っている。その姿勢は「取材」を仕事にするメディア人はもちろん、すべての仕事人にとってこの番組の高田純次の振る舞いには学びがある。

やたらと細かいところに目が行く


まず、この散歩人は町にある違和感を見逃さない。とにかく細かいことにやたらと気づく。
例えば「新馬場」の回。年季の入った商店街の古びた小屋を見つけて、「いい角にもったいない」「交番かなんかだったんじゃない?」と中を覗き込んだり、まわりをうろうろしたり。しかも興味があるものを見つけたら、けっこう粘る。通りすがりの人に話しかけ、「やっぱ、交番でしょ?」などとその成り立ちを確認するまで粘る。「東銀座」の回では裏通りにあるバナナジュース店で、200円という破格の値付けに食いついた。「200円、安くない?」「バナジューは700円から1000円するもんね」「しかもおいしいんだもの」「どうしてこんなに安くできるの?」と畳み掛け、「間借りで家賃がかかんない」という回答を引き出した。
「あ、じゃあ別に腐ったバナナ使ってるわけじゃないんだ。アッハッハッハ」と自ら爆笑し、店主と客を笑いに巻き込んで和やかな雰囲気を作ってから店を後にした。

そういえば以前、中京テレビの『PS』というトーク番組でこんなシーンがあった。高田純次がロケ先で出会った朝市のおばちゃんを親しげに名前で呼んでいた。実は屋台の軒にかけられた小さな名札をチラ見して読んだだけだったのだが、その様子を見ていたタレントの加藤晴彦が「高田さんはこういう(細かい)とこ、すごくよく見てる」と感心していた。

そうした「細かさ」は散歩ルートの選び方にも現れていて、とにかく狭い横道を見つけたらすぐ入る。
「広尾」では人ひとりがようやく通れる細い路地の入口で立ち止まり、「こういう路地を歩かないでどうすんの」言いながら奥まで入っていった。一度入ったら止まらない。通りすがりの井戸のポンプのレバーをグイッと押し、配達されたばかりの夕刊を手にする地元住民に「あら、夕刊?」と見たままを問いかけ、揚げ句に「今日の夕刊、すごいこと載ってますかね?」とその新聞を読みだす始末。もっとも去り際には「ありがとう。すいませんね。どうも。
ごめんなさいね。すいません。ありがとうございます」とこれでもかというくらいに礼を言っていた。とにかく細かいことをいちいち拾って、粘れるだけ粘る。そして後味よくその場を立ち去る。取材のお手本のようだ。

すべてのメディアは「じゅん散歩」に学べ

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しかも「知識」の出し入れが絶妙である。町歩きに際して事前情報はあまりインプットしていないようだが、そこは芸能界でも"博識"との評を取る男。時折その片鱗がちらりと見える。本人は「何もない」とか「趣味がない」と言うものの、例えばディープなカーマニアとしてその筋では有名だ。「西麻布」の回では、ミニカーショップで旧車のミニカーを目の前に「オースティンヒーレー! (BMW)イセッタ……。アストンマーチンあるじゃない! ジェームス・ボンドの! DB5だもんね。
これね!」と急上昇する本人のテンションとともにうんちくが炸裂していた。

「南青山」の回でも、「季節ごとに靴を買う」なじみの店に飛び込み「このハラコ(小型の馬の毛皮)の靴が好きでね」と懐の深さがバレるコメントを披露していたし、そもそもタイトルバックのイラストだって自分で描いている。本人は「こんなもん、勉強すりゃ誰だって……」というが断じてそんなことはない。この人の場合、無趣味というより、趣味をことさらに自慢するのをよしとしないだけの話なのだ。

「テキトー」の裏側に隠されたもの


この人の相づちや合いの手はよく「テキトー」と評される。だが、いつも同じ調子ではない。注意してみると、とても繊細に"共感"の深さを無段階で調整している。バラエティ番組でよく見かけるのは、調子を合わせるだけの軽ーいアレだ。だが、あれはひとつの引き出しにすぎない。象徴的なシーンが「品川」の回にあった。立ち寄った立ち食いそば店からの帰り際、店主に向かって「(最初に会って、その後席を外した)ママちゃんにもよろしく言っといてね。ママちゃん右手どうしたの? 転んだの?」と本人不在のところで心配そうに質問を投げかけた。

画面の前で「あれっ? なんのことだろう?」と不思議に思ったところ、画面の片隅に「ママちゃん」の画像がワイプで抜かれた。そこで初めて気がついた。確かに「ママちゃん」の腕には湿布が貼られている。この回は、5分近くの長い尺をこの店に割いていたのに、テレビの前の僕はまるで「湿布」に気づかなかった。

一方、高田純次はといえば、気づいたであろう瞬間にはそのことには触れず、あとでこっそり何があったかをご主人に尋ねた。気配りの人である。考えてみれば、会話の端緒になるいつもの軽口は、多少踏み込んだとしても相手を傷つけることなく済ませる緩衝装置としての機能も果たしている。著書の『高田純次のチンケな自伝』(産経新聞出版)にも「仕方なく、バカなことをいってみたり、無責任なことをいってみたりするけれど、俺が本当に適当男なのかどうか、本人も怪しんでいるね」とあるように、素と芸の境界線はわからない。でも、路地裏の段差でさりげなく「カメラさん、段差あるから気をつけて」と気遣うやさしさはある。
すべてのメディアは「じゅん散歩」に学べ

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高田純次という人は、自らの肩書きを自己規定するのを好まない。9月に放送された『徹子の部屋』でも「第三者が思ってくれるのが自分かな」と口にしていたし、著書にも「タレント、俳優、社長、宝石鑑定士、デザイナー、詩人、色事師…適当に選んでよ」と記されている。評価は他人が下すべきもので、やるべきことも他者からの求めのなかにある。それが高田純次のスタンスなのだ。

求められる役割はバラエティとは異なる。だから「じゅん散歩」ではフルスイングでのボケはかまさない。あくまで町の魅力を紹介する番組のナビゲーターという役割に徹して、必要なときに細かいボケや笑いを入れていく。その先には高田純次でなければ引き出せなかったであろう、町の魅力が映しだされている。
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ちなみにもうひとつ余談になるが、この番組でわかったことがひとつある。どうもこの人は、おしゃれな町並みを見つけるとフランスに例えるのが好きらしい。第一回の「有楽町」で「このあたりはもうフランスでしょう! あまり行ったことがないけれども」とオチをつけた。「表参道」の回でも「フランスの片田舎みたい。や、フランスの片田舎に行ったことないんだけど」と同じようにボケていた。

見ているこちらとしては「どんな町なんだ」と内心でツッコミを入れつつ、気づけば町に惹かれ、出かけたくなっている。そもそもこの原稿にしても、「高田純次の取材力」について書いていたはずのに、いつの間にか町歩きの楽しさに思いを馳せている。そんなとき、本人の口グセを思い出す。お気に入りの何かに出会ったとき、高田純次はボヤくようにこう口にする。

「ヤラれたなあ」

ヤラれたのはこっちのほうである。
(松浦達也)