2005年のAKB48結成時、グループが10年続くと予想できた人はほとんどいないだろう。最初の公演で入場料を払って見に来た客はたった7人しかいなかったという話は語り草だ。2008年には、グループ結成2周年を記念してリリースされたスペシャルフォトアルバムに早くも10周年記念ライブの招待券が封入されたが、このときでさえ2015年にAKB48が存続していると信じたファンは少なかったという。
それがいまやまぎれもなく国民的アイドルグループにまで成長、国内外に姉妹グループも続々と生まれ、一大勢力を形成している。
AKB48がアイドルの世界をさまざまな点で変えたことは間違いない。いま思いつくだけでも、AKBについて特筆すべき点として以下のようなことがあげられる。
【1】劇場公演を活動の中心に置いたこと
【2】ファンの意見を積極的に活動に反映させたこと
【3】握手会をはじめファンとの交流の機会を多く設けたこと
【4】地方、海外に姉妹グループを広げたこと
【5】衣装やミュージックビデオなどの制作にあたりベテランだけでなく新進気鋭、若手のクリエイターを数多く起用していること
【6】活動のすべてがその舞台裏も含めて映像に記録され続けていること
【7】SNSなど次々と登場するツールを活用しながら、メンバーが個々に発信していること
【8】東日本大震災後、被災地訪問を続けていること
この記事ではこれら項目を踏まえながら、AKB48の10年を振り返ってみたい。
まず【1】についていえば、AKB48以前にも、ライブを主体とした「地下アイドル」と呼ばれるアイドルはすでにおり、秋葉原にはそうしたグループが集まっていた。AKB結成からしばらくは、それら地下アイドルの一種というイメージを持たれていたことは否めない。
しかし基本毎日公演を行なう劇場で、AKBは確実に育ていった。その後、AKBがテレビはじめメディアで頻繁にとりあげられるようになってからも、劇場公演こそ48グループのアイデンティティであることはゆるぎない。
AKBの目標の一つに、東京ドームでのコンサートを開いた翌日にもいつもどおり劇場で公演を行なうというのがあったが、それは2012年に達成された。主要メンバーの卒業も、セレモニーは東京ドームなど大会場で行なわれても、グループでの最後の活動はやはり劇場公演だ。前田敦子の卒業の際に、劇場最終公演の行なわれた当日、秋葉原に大勢の人が集まったのは象徴的だった。
劇場公演を主体に据えた体制では、ファンの声が運営側に届きやすい。いまでは年に1回の国民的イベントの様相を呈しているが、あの「選抜総選挙」もそもそもは、いつも運営側が決めていたシングルを歌うメンバーを自分たちが選びたいというファンの声から始まったものだ。【2】にあげたとおり、そんなファンと運営・メンバーのインタラクティブな関係が、AKB48を発展させてきた部分は確実にある。
さまざまな危機を乗り越えて
【3】にあげた握手会をはじめとする交流イベントは、AKB以前に広い人気を得ていたモーニング娘。などのアイドルではあまり行なわれていなかった。それがAKB48では活動の重要な柱として継続されている。
握手会はファンとメンバーの交流の場となる反面、2014年には岩手県での握手会で、会場を一人の男が刃物を持って襲撃し、メンバー2人とスタッフ1人が負傷するという事件も起こった。これを機に、握手会、また劇場公演やコンサートでは持ち物検査の強化など警備体制の見直しがはかられることになる。
この事件だけでなく、AKB48はこれまでさまざまな危機に直面しながら、そのたびに乗り越えてきた。2007年にNHK紅白歌合戦に秋葉原枠として初出場するなど徐々に一般的に知られるようになってきた矢先、2008年には、シングルの販売方法をめぐる独占禁止法違反問題が原因で、それまで楽曲をリリースしてきたレコード会社との契約を打ち切られるという事態に直面している。
その後、AKBは配信限定のシングル1作を挟んでキングレコードへ移籍するのだが、キングでは最初のシングルとなった「大声ダイヤモンド」では、名古屋で結成されたばかりの姉妹グループ・SKE48から松井珠理奈(当時11歳)が前田敦子とともにセンターに抜擢された。このケースからは思い切ってまったくの新人をセンターに据えることで、危機を脱しようという意図がうかがえる。
メンバーの往き来がグループを活性させた
【4】であげたとおり、SKE以降も、大阪のNMB48(2010年結成)、福岡のHKT48(2011年結成)、インドネシア・ジャカルタのJKT48(2011年結成)、中国・上海のSNH48(2012年結成)と国内外に続々と姉妹グループが誕生した。2015年にはそこへあらたに新潟のNGT48が加わり、来年年明けには新潟市内に専用劇場のオープンも控えている。
AKBのシングルに各姉妹グループからメンバーが選抜されるだけでなく、グループ間でのメンバーの移籍・兼任も盛んに行なわれている。なかには過去のスキャンダルが発覚したのを機に、AKBからHKTに移籍した指原莉乃のようなケース(2012年)もある。ときにはスキャンダルさえ逆手にとって、メンバーが往き来することでグループ全体が活性化されてきたことは間違いない。
AKB48グループの形成はまた、地方アイドルブームに火をつけた。さらにそのブームを反映して、2014年にはAKB48内に47都道府県から1名ずつメンバーを集めた「チーム8」も結成されている。
先述の指原の移籍にしてもそうだが、AKB48は結成以来、物議をかもしたことも少なくない。2011年のシングル「ヘビーローテーション」のミュージックビデオでは、監督に写真家・映画監督の蜷川美花が起用され、そこでメンバーが下着姿になっていることが賛否両論を呼んだ。しかしこのMVもあわせ、同曲がAKBの代表作であることは異論をまたないだろう。
【5】でミュージックビデオとともにあげた衣装は、AKB48において重要な位置を占める。
数あるAKBの衣装のなかでも「言い訳Maybe」(2009年)での制服風のコスチュームは、パロディやモノマネなどでたびたび模倣・引用され、AKBを示すアイコンとして周知されている。ひょっとすると、世間的には「言い訳Maybe」という曲以上に衣装の認知度のほうが高いかもしれない。なお結成以来、衣装チーフ・デザイナーを務める茅野しのぶは、昨年からAKB48グループの総支配人を兼任している。
【6】もほとんど類例がないことだろう。メンバーの行動は劇場公演、コンサートだけでなく、レッスン、あるいはインフルエンザ注射の様子にいたるまでほぼ余すところなく映像に記録されている。2011年からはこれらを素材にしたドキュメンタリー映画が年に1回のペースで公開され、そこで明かされるグループの実態は観る者の心を揺さぶり続けてきた。
ナンバーワンよりオンリーワンになるほうが難しい?
【7】は多分に現在という時代を反映している。ブログやツイッターなど既存のツールにとどまらず、グーグルプラスや「755」など新たなSNSサービスが出てくるたびにAKBのメンバーが参加し、いわばモニター的な役割を担ってきた側面がある。
大所帯となったAKB48グループのなかにあって、SNSはメンバーの格好の自己PRのツールになっている。なかにはグーグルプラスで日々動画をあげてきたSKE48の松村香織のように、SNSでの積極的な活動を通じて広く認知されるようになったメンバーもいる。
だが、複数のツールを持っているからといって、コンスタントにネタをあげていくことは容易なことではないだろう。何よりみんなが同じツールを使っているのだから、そのなかでひときわ目立つにはそうとうの工夫が必要なはずだ。それにもかかわらず、メンバーたちがおのおの毎日ブログやSNSなどの更新に余念のないのを見ていると、ナンバーワンになるよりオンリーワンになるほうがよっぽど難しいと思ってしまうのだった。
被災地訪問を可能にしたもの
最後に【8】の被災地訪問は、2011年5月から現在にいたるまで毎月1回欠かさずに行なわれてきた。その回数はすでに50回を超え、津波により大きな被害を受けた東北地方の太平洋岸の市町村にはほぼすべて訪問している。
こうした活動をコンスタントに続けることは、おそらくいまのアイドルの世界でAKB48にぐらいしかできないことだろう。何しろAKBは国民的アイドルとして抜群の知名度を持ち、なおかつ劇場公演や握手会などでファン対応のノウハウを培っている。毎回原則としてグループから6人を派遣することができるのも、大所帯ゆえフレキシブルにスケジュールを組めることが大きいはずだ。
この活動については最近、立ち上げから携わってきたテレビプロデューサーの石原真が『AKB48、被災地へ行く』(岩波ジュニア新書)という本にくわしくまとめている。それを読むと、あらためてアイドルと社会のかかわりについて考えさせられる。
本書でとりわけ私の印象に残ったのは、ある大雪の日にメンバーが児童福祉施設に訪れたときのエピソードだ。何らかの事情で保護者と一緒に暮らすことのできない子供たちが共同で生活するその施設に、ひときわ元気のいい中学生の少年がいた。
思わず雪のなかを裸足で駆け出すほど、人の心を揺り動かしてしまう。まさにアイドルの力というしかない。私たちファンは多かれ少なかれ、さまざまな場面でその力を実感してきた。そんなふうにさまざまな思い出をファンに残しながらAKB48は10周年を迎えようとしている。そのことを祝しながら、この記事を締めたい。
(近藤正高)