メジャーリーガーとして輝かしい実績を残した野茂英雄。しかし、彼が最初にメジャー挑戦を表明した時、日本球界は彼に対し、批判と中傷を繰り返していた。

だが、野茂はそんな逆境にも挫けず、メジャーリーグへの道を選んで大活躍。批判を賞賛に変えたのだった。そんな野茂の近鉄入団からメジャーでの活躍までの輝かしい功績を振り返る。

ドラフトで8球団が指名


野茂は社会人時代、チームを都市対抗野球へ導き、日本代表としてもソウル五輪で銀メダルを獲得した。そのため、その年のドラフト最大の目玉であり、なんと8球団(現在も最多指名記録)から指名される。
抽選の結果、最後にくじを引いた近鉄が交渉権を得て、野茂は近鉄へ入団することに。1年目から野茂は重圧を物ともせず、大活躍! 新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村賞・MVPに選出され、8冠を達成したのだ。

翌年以降も最多勝と最多奪三振のタイトルを取り続け、新人から4年連続で最多勝と最多奪三振のタイトルに輝いた。

鈴木啓示監督との確執


しかし1993年、野茂の独特な「トルネード投法」を認めるなど、関係が良好だった仰木彬監督が辞任。新監督として近鉄の名投手だった鈴木啓示が就任することに。鈴木が監督になったことで、野茂のプロ野球人生は大きく変わることになるのだった。

調整方法を野茂に一任していた仰木と違い、鈴木は野茂の練習方法や調整方法に口を出した。それだけでなく、野茂にひたすら走りこむことを要求し、野茂独自の練習を否定。
慣れない調整方法や練習方法の変更の影響か、野茂は鈴木就任の翌年(1994年)、右肩の故障などで成績が低迷して入団から続けていた最多勝と最多奪三振のタイトルを逃してしまう。


契約更改で任意引退書にサイン


タイトルを逃した1994年の年末、契約更改に臨んだ野茂は複数年契約や代理人交渉を球団に要求する。当時ではこれらは通例にない要求だったため、球団は拒否し、交渉は紛糾した。
過去にも球団から「キミ(野茂)のことはエースとして扱っていない」と言われるなど関係が良くなかったこともあり、野茂は1995年、任意引退という形でメジャー挑戦を明らかにした。

マスコミとプロ野球界からのバッシング


メジャー挑戦を表明した野茂を待っていたのは、応援ではなくバッシングだった。
新聞や球団、プロ野球OBなどから「態度が悪い」「既に肩は壊れてる」「メジャーで通用するわけがない」「すぐに逃げて帰ってくる」「勘違いで自意識過剰」「生意気」などと散々に批判されることに。

しかし、野茂はそれらの批判に対して一言も反論せず、沈黙を貫いたまま黙々とメジャーからの契約を待ち続けた。


ドジャースへ入団


メジャー挑戦表明から一カ月経った1995年2月8日、野茂はロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだが、年俸は近鉄時代の1億4000万円から980万円に。それでも野茂は記者会見で笑顔を浮かべ、「みんなに憧れられる選手になりたい。でも自分はこれから続く人のためにも失敗はできない」と抱負を述べたのだった。

メジャーでの「NOMO旋風」


1995年、野茂のメジャー初登板は5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦だった。初登板では勝ちに恵まれなかったが、6月2日の初勝利以降は好投を続け、オールスターでの先発という大役も務めるまでの活躍を見せる。
メジャー初年度の野茂は、最多奪三振のタイトルを獲得するなど大活躍し、新人王に選ばれた。

「トルネード投法」で奪三振を取りまくる野茂に、アメリカの野球ファンも熱狂し「NOMOマニア」という言葉まで生まれた。野茂移籍の前年にストライキの影響でアメリカの野球人気が低迷していたこともあり、「野茂はメジャーリーグを救った」という声まで聞かれたほど。


両リーグでのノーヒット・ノーラン達成者


野茂はその後も活躍を続けて、ドジャースとレッドソックスでノーヒット・ノーランを達成。メジャー史上で4人しか達成していない両リーグでのノーヒット・ノーラン達成者となる。

その後、2008年に現役引退した野茂だが、現在も自ら立ち上げ「NOMOベースボールクラブ」などを通して野球の裾野を広げる努力を続けている。
あの時、野茂がメジャーに渡っていなかったら、今の日本人メジャーの活躍もきっと見られなかっただろう。先駆者として覚悟を持ってメジャーに挑戦し、結果を出して道を切り開いた野茂にあらためて敬意を評したい。
(篁五郎)