今回は、横浜フリューゲルスが消滅するまでの過程を辿りながら、消滅・合併に至った理由や、その発表後のチームの快進撃について紹介していこう。
横浜フリューゲルス消滅・合併までの流れ
横浜フリューゲルスの消滅・合併が囁かれたのは、1998年10月29日。公式発表の前に、新聞で報道されたことにより明らかになった。この発表はファンだけではなく、主力選手の三浦淳宏と楢崎正剛などでさえ寝耳に水の話で、事前に運営側からの説明がなされたわけではなかった。
サポーターたちはチームを存続させる会を設立。クラブ消滅が勝手に決まっていたことや、合併する相手が同じ横浜を本拠地とするライバルチームの横浜マリノスであったことなどにより、特に反対する意見や非難が多かった。
こうした流れを受け、合併に反対する署名運動は、地元の横浜のみならず全国各地へと広がった。フリューゲルスファンの川平慈英も消滅・合併に反発し、存続支援の意志を発表。しかし、その願いはかなわず、12月2日の両クラブ合併の調印式を経て、翌年の2月1日に正式合併となった。チーム名はフリューゲルスの頭文字である「F」を加えた、「横浜F・マリノスとなった。
横浜フリューゲルス消滅の原因
クラブ消滅の原因は、出資会社の経営不振である。全日空と佐藤工業の共同出資という形で生まれたが、まず佐藤工業が経営難に陥り、クラブの運営撤退を余儀なくなれる。全日空は、全国へと広がるネットワークを活かして九州3県を特別活動地域に指定するなどして運営していたが、やはりここも経営不振の煽りを受けることに。
最悪、クラブが消滅した後にそのまま解散する事態も考えられたが、横浜マリノスに引き取ってもらう形で存続することにより、選手たちの救済策をとった。
横浜フリューゲルス合併発表後のチーム快進撃
合併発表時は、Jリーグ2ndシーズンの真っただ中だった。発表直前は京都相手に破れていたが、発表後はシーズン残りの4試合を全勝。特に発表直後のセレッソ戦では球場最多得点の7点を叩きだした。
また、その冬開幕した天皇杯でも快進撃を続ける。準々決勝と準決勝は、当時のJリーグで強さが光っていたジュビロ磐田と鹿島アントラーズに対し、接戦を制して勝ち進む。決勝では清水エスパルスに2ー1で勝利し、天皇杯優勝を収めたのだった。