今ではすっかり、関東を代表する大御所芸人としてのポジションを確立しているとんねるず。『みなさんのおかげでした』や『スポーツ王は俺だ!!』などで、有名どころの後輩芸人から敬愛されている姿を見れば、直撃世代でなくても、漠然と彼らが「すごい人」だと気づくはず。

タレントとしては、『オールナイトフジ』『夕やけにゃんにゃん』『ねるとん紅鯨団』など、数々の時代を代表する番組のメインMCとして活躍。歌手としてもミリオンヒットを記録した『ガラガラヘビがやってくる』をはじめ、『情けねえ』『がじゃいも』といった幅広いジャンルの佳曲を発表しました。おそらく、芸人でありながら東京ドームで単独コンサート開催したのは、彼らくらいではないでしょうか。

伝説的人気を誇った『とんねるずのオールナイトニッポン』


彼ら2人が、ブレイクの兆しを見せはじめた1985年に開始したのが、『とんねるずのオールナイトニッポン』です。現在は長らくTBSラジオの帯番組「JUNK」の後塵を拝しているものの、当時のANNといえば、人気タレントの登竜門でした。『鶴光のオールナイトニッポン』、『ビートたけしのオールナイトニッポン』など、伝説的な番組を多数輩出し、深夜の有楽町から日本中のリスナーを笑いの渦に巻き込んできたことは、今でも語り草となっています。

『とんねるずのオールナイトニッポン』も、この2番組に劣らぬ名番組として、AMラジオの歴史に名を刻んでいます。テレビ収録や業界人の裏話、帝京高校時代の思い出話、そして、数多くの名ハガキ職人を生み出したネタのコーナーなどで、若者のハートをガッチリとキャッチ。当時、長きに渡って聴取率トップに君臨していた前述の『ビートたけしのオールナイトニッポン』を抜き、高い聴取率を記録しました。ナインティナイン、中居正広、つんく♂など、この放送に影響を受けたと表明する芸能人は数知れません。

石橋貴明が激怒したラジオマンの一言


そんな『とんねるずのオールナイトニッポン』ですが、ある事件をきっかけに、突如、その歴史に幕を下ろすことになってしまいます。発端は、1992年4月のある日の放送でのことでした。冒頭、木梨憲武の声のみで番組が始まります。いつも聞こえるはずの、石橋貴明の声はありません。
カラ元気と神妙なトーンを綯い交ぜにしたような調子の木梨から、石橋不在の理由が明かされます。事の顛末はこうです。

当時とんねるずのブレーンだった秋元康が監督・脚本を務めた映画『マンハッタン・キス』の披露パーティーが、この放送の前にありました。そこに出席した石橋は、隣に座っていた当時ニッポン放送のプロデューサーだった宮本幸一の「とんねるずは俺が育てた」という発言を耳にします。
この宮本と言う人物、明石家さんまや伊集院光などとも揉め事を起したいわくつきのラジオマンとして、悪い意味でAMラジオファンから知られている男です。
普段から宮本に対し「名前も覚えてないくせに、態度がでかい」と快く思っていなかった石橋は、この一言に激怒。「もうオールナイトニッポンには出ない」と言い、ボイコットに至ったとのことです。石橋の行動に対し、木梨も「僕もうちの事務所としても、貴明が悪いとは思いません」と石橋を擁護。ニッポン放送と、とんねるずは一触即発の関係となったのです。

1992年10月をもって番組は終了に


さすがにこの騒動を放置するわけにもいかず、すぐさまニッポン放送と事務所サイドで話し合いが設けられ、翌週、石橋は復帰。しかし、その日の放送で、とんねるずの2人は10月での番組終了を宣言し、結局6ヶ月後、終わりを迎えてしまうのでした。
この番組終了劇。
とんねるず本人が、ラジオの生放送にやる気をなくしていたという事情もあるようです。それでも世話になったスタッフや恩人を大事にするとんねるずだからこそ、「俺が育てた」と恩師気取りで吹聴する宮本の行動が許せなかったのでしょう。これぞ“男気”といったところでしょうか。

(こじへい)
※イメージ画像はamazonよりとんねるずのみなさんのおかげでした 博士と助手 細かすぎて伝わらないモノマネ選手権 Season2 Vol.2 「紅白モノマネ合戦〜深夜3時の奇跡編 [DVD]
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