1994年の6月13日、彼は来日しました。フランスの強豪クラブチームマルセイユから、Jリーグの名古屋グランパスエイトへ移籍するためです。そこから、旧ユーゴスラビアの至宝、“ピクシー”ことストイコビッチと日本の、監督時代も含めて、20年以上にも及ぶ蜜月は始まったのです。
強豪ユーゴスラビア代表で10番を背負い続けたピクシー
当時29歳のストイコビッチは、既に祖国の英雄でした。1984年に参加したロサンゼルスオリンピックでは銅メダルを獲得。その後出場した1990年FIFAワールドカップでは、チームをベスト8へ導き、自身も大会ベストイレブンに選出されるという栄誉を勝ち取ったのです。
それに、彼が活躍していた頃のユーゴスラビア代表といえば、東欧のブラジルと呼ばれたスター集団。レアル・マドリードのミヤトビッチ、ACミランのサビチェビッチ、ラツィオのスタンコビッチなど、欧州屈指の名門クラブで司令塔的役割を担う選手が集っていました。そこで代表を引退するまで一度もエースナンバーの「10番」を譲らなかったことからも、その凄さは推して知るべしというものでしょう。
所属チームの八百長問題とユーゴ情勢 来日のきっかけに
そんな名選手が、キャリアの円熟期を迎えようとしている時に、なぜ、当時サッカー発展途上国だった日本を選んだのでしょうか? しかも、ストイコビッチが在籍していた当時のマルセイユは、フランスリーグを代表する名門クラブ。リーグはもちろん、欧州チャンピオンズカップ優勝さえも狙える陣容を揃えていました。それにも関わらず、彼が移籍した背景には、2つの出来事が関係してきます。
まず一つは、マルセイユのスキャンダルです。当時の会長が企てた八百長問題によって、2部リーグ降格と、1993年に獲得したUEFAチャンピオンズカップ優勝杯剥奪という憂き目にあってしまいました。
もう一つは、当時のユーゴスラビア連邦を取り巻く国際情勢が絡んできます。90年代、ユーゴは民族間の対立や政治的な問題により、内戦状態にあり、その悪玉として糾弾されていたのが、連邦国の一つ、セルビアでした。ストイコビッチはセルビア人であり、当時、メディアや観客、果てはチームメイトに至るまで、想像を絶する差別を受けていたそう。
こうした状況から、心身ともに疲弊の極みにあったピクシー。そんなときに、オファーを出したのが、他でもない、名古屋グランパスエイトでした。
ストイコビッチ、平和な日本が気に入って契約延長
「気分転換の旅行気分だった」。後にこう語っているように、当初はJリーグで長期間プレーする気はなかったらしく、契約期間も僅か半年。しかし、セルビア人への差別意識がない平和な日本は、ヨーロッパでのプレーに辟易していたストイコビッチにとっては最高の環境。そこへさらに、フランスリーグ時代、その手腕をライバルチーム側から見ていた、当時ASモナコの監督として鳴らしたアーセン・ベンゲルが、1994年11月、名古屋の監督に就任することが決まります。こうした経緯があり、彼は日本にしばらく留まることを決意するのです。
そこからのキャリアは、現役引退するまで名古屋一筋。その間に様々な記憶に残るプレーを披露し、日本のサッカーファンの度肝を抜きます。
1996年には、イングランドの強豪・アーセナルの監督に就任したベンゲルから、オファーを受けたこともありました。しかし、名古屋がこれからチームとして強くなるには自分の力が必要と感じ、それを断ってしまいます。「おそらく、当時アーセナルからのオファーを断ったのは世界で私だけではないでしょうか。」と後に雑誌のインタビューで、冗談交じりに答えたピクシー。名古屋サポーターでなくても、日本のサッカーファンなら感謝せずにいられないというものです。
(こじへい)
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