優勝するには6球団中の1位になることー
こう書くと何だか簡単そうに感じます。1/6に入ることなど、運動会の徒競走やクラスの成績順位で、多くの人が経験しているはず。
それも一回性の勝負事ではなく、何十年もの長きに渡って毎年繰り返していたら、数年に1度くらいトップに立ちそうなものです。
しかし、サイコロの目を振るような僥倖と無縁なのが、ペナントレースの厳しいところ。トーナメント戦ならば、勢いや偶然で弱小チームが頂点に立つこともあるでしょう。けれども、何度となく同一チームで戦っているといつしか勝ち負けは平均化され、百数十試合を消化するころには、厳然たる実力差が突きつけられるのです。

最下位争いを繰り返す横浜DeNAベイスターズ


横浜はこうした精密なるチカラ比べの結果、万年Bクラスのスパイラスに嵌ってしまった哀れな球団です。特に、2000年代に入ってからの低迷ぶりはすさまじく、最下位は当たり前、5位で御の字といった状況。ひどいシーズンだと5位から20ゲーム差以上離されたり、チーム勝率が所属打者の打率を下回ったりという、悲惨すぎる結果を残しています。
優勝争いはおろか、クライマックスシリーズ争いにも一切絡めないという、まるで横浜だけが別次元で違うリーグを戦っているかのように見えることから、「横浜はセ・リーグではなく、横浜だけが所属するベ・リーグで争っている」などと揶揄されることも。アレックス・ラミレスが新監督となるも、4月から最下位を独走している今シーズン、早くも“ベ・リーグ”に突入した感があり、順位争いに関与することは難しそうです。

絶対的守護神として君臨していた大魔神・佐々木


そんな横浜が直近で優勝したのは、1998年。1960年の初優勝以来、38年ぶりの戴冠でした。当時は、打順に関係なくどこからでも連打を狙える「マシンガン打線」と呼ばれた好打者揃いの打線と、安定感抜群の投手陣からなる盤石な陣容を擁していたものです。その中で、1~3点リードの最終回に登板し、手に汗握る接戦を勝利で締めくくる千両役者として、横浜ファンから心酔され、他球団ファンから忌み嫌われたのが、ハマの大魔神こと、クローザー・佐々木主浩でした。
当時、ミスターこと巨人の長嶋茂雄監督をして「横浜との試合は8回まで」と言わしめるほど、圧巻のピッチングを披露していた、大魔神・佐々木。
その言葉を証明するように、9回、ピッチャー佐々木の名前がコールされて沸き立つ横浜ファンを尻目に、相手チームのファンは帰り支度を始め、用具係も片づけの準備に取り掛かっていたものです。150キロの剛速球と140キロ台後半の「二階から落ちる」と形容されるほど落差のあるフォークボールを武器に、松井秀喜をはじめとする並み居る強打者をきりきり舞いにしました。

JR横浜駅東口に建立された「ハマの大魔神社」


特に1998年は、22試合連続セーブポイント、江夏豊を抜いて通算194セーブ、2年連続30セーブなど、様々な日本記録を塗り替える突出した活躍から、ペナントレース終盤の9月にはJR横浜駅東口に「ハマの大魔神社」なる神社まで登場。生きながらにしてご神体となった背番号22は、そんな地元横浜の期待にしっかりと応えます。リーグ優勝、日本シリーズ制覇を決めた試合の最終回に登板し、見事ゲームを締めくくって見せたのです。最終打者を切って取り、大喜びで現・中日監督のキャッチャー・谷繁と抱き合った場面は、この年のプロ野球における象徴的なシーンでした。

あれから、18年。横浜は毎年のように最下位争いをし、佐々木も引退後は私生活のトラブルなどで、晩節を汚した感があります。それでも、当時の横浜と彼の輝きは特別なもの。「今回が38年ぶりだから、次に優勝するもまた38年後か」。テレビのプロ野球解説者が冗談めかして言った言葉が現実になりそうな今、横浜ファンはあの日の栄光を懐かしみ、第二の大魔神の登場を待ちわびるのです。
(こじへい)

※イメージ画像はamazonより横浜ベイスターズ1998ライブラリー
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