ヤクルトの背番号1、山田哲人が止まらない。

チーム67試合終了時、20本塁打、49打点、17盗塁、出塁率.437はリーグトップ。
打率.323も坂本に次いでリーグ2位。NPBで三冠王獲得者は過去7名いるが、もちろん盗塁王と同時獲得した選手はひとりもいない。打てて走れる若きスーパースター。6年目のシーズンに三冠王+盗塁王に挑む男。

惜しくも三冠王を逃した1995年イチロー


今シーズンの山田を見ていると、21年前のあの天才バッターを思い出す。1995年のイチローだ。当時22歳、4年目のシーズンを迎えていた背番号51は打率.342、25本、80打点、49盗塁の大活躍を見せ、首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率の5部門でパ・リーグ打撃タイトルを獲得。
ちなみにこの年の本塁打王は小久保裕紀(当時ダイエー)の28本。イチローはトップまでわずか3本差で三冠王と盗塁王の同時獲得を逃した。

しかしオリックスは初のリーグ優勝に輝き、イチローは2年連続でMVPと正力松太郎賞を受賞。前年、登録名を鈴木一朗から「イチロー」に変更し、振り子打法で210安打を放った男はわずか2年で名実ともに球界の頂点へと登り詰めた。

大きな事件が続いた1995年


この1995年という年は社会的にも大きな事件が続いた1年だった。年明けの1月17日には阪神淡路大震災が起き、オリックスも「がんばろうKOBE」を合言葉にシーズンを戦うことになる。プロ野球開幕直前の3月20日には地下鉄サリン事件が発生。

当時はインターネットや携帯電話もほとんど世間一般には普及しておらず、皆食い入るようにテレビ画面を見つめていた。私は埼玉の高校に通っていたが、学期末のクラス対抗球技大会という平和なイベントの最中に購買部にパンを買いに行くと、レジのおばちゃんが「東京の地下鉄で事件があったみたいだけど、あんたたちお父さん都内に通勤したりしてない?ウチに連絡しなくて大丈夫?」と心配そうに言っていたのを思い出す。

同年5月2日には野球史的にも重要な意味を持つ出来事があった。野茂英雄(ドジャース)がサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを飾ったのである。
「NOMOマニア」と呼ばれる現象を生み、13勝を挙げ、新人王に輝いたトルネード。この後多くの日本人プレイヤーが海の向こうへ渡ることになるが、すべての始まりは野茂だった。

ラストシーンの中心にいた背番号51


そんな激動の1995年にイチローは新世代の旗手として獅子奮迅の大活躍を見せていたのである。全試合フル出場して首位を走るチームを牽引、オールスターでは史上最高得票を獲得、前人未到の打撃タイトル独占への挑戦。
そして、阪神淡路大震災から245日後の95年9月19日、オリックス仰木監督は宙に舞った。まるで映画のようなラストシーンの中心にいたのは間違いなく背番号51だ。

あれから21年。白髪まじりの42歳となったイチローはマイアミ・マーリンズでメジャー16年目のシーズンを迎えた。
90年代の球界に革命を起こし、00年代をトップランナーとして駆け抜けた天才は日米通算4255安打を積み重ね、ピート・ローズが持つメジャー最多安打記録まであと1と迫っている。

2016年の今もイチローの物語はまだ終わっていない。
(死亡遊戯)
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