YOSHIKIが歩んだミュージシャンとしての足跡は、あまりにもドラマチックです。かといって、そのまま映画や小説にしようものなら、荒唐無稽過ぎて、陳腐な作品になる可能性大。
試しに書き出してみると……。
関東のヘビメタバンドの一員だったところから、『元気が出るテレビ』でイロモノ扱いにされ、数年後には、ヴィジュアル系のカリスマとして東京ドームを満員にし、終いには、ゴールデン・グローブ賞のテーマ曲を依頼されるほどの世界的音楽家へ…。ざっと振り返るだけで、これです。事実は小説よりも奇なりとはいいますが、度が過ぎるにもほどがあるというものでしょう。

気付けば天皇陛下の御前でピアノを奏でるアーティストに


そんなロックンロール・ドリームを地でいくようなキャリアのYOSHIKIですが、一際、彼の立身出世っぷりを世に分かりやすく示したのが、1999年、「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」にて、今上天皇の即位10周年を記念する奉祝曲『Anniversary』を演奏したときでしょう。
夜闇に包まれた皇居前広場で天皇皇后両陛下が見守る中、オーケストラを率いてピアノコンチェルトを奏でる彼の姿に、多くの人が思ったはずです。このX JAPANのリーダーは、常人には到底たどり着けない、特別なステージの人間になったのだと。

その思いは彼の過去を知る人ほど強かったはず。何せ、ほんの10数年前までは『元気が出るテレビ』の企画「早朝ヘビメタ」で、朝っぱらから大音量でヘビメタを演奏し、それにキレたたけし軍団の団員と、殴り合いを繰り広げていた男なのです。
ちなみに、そのやりあった団員というのは、当時、そのまんま東と名乗っていた東国原英夫。片や、世を憂う政治家となり、片や、園遊会へお呼ばれするレベルのスターになろうとは、誰が予想出来たでしょうか。

YOSHIKIが深い悲しみに苛まれた“HIDEの死”


かくして、永世に語り継がれる誉れを手にしたYOSHIKIでしたが、この奉祝曲演奏の数ヶ月前までは「消えちゃいたい」くらい悩んでいたのだとか。祭典が催された1999年はまだ“あの事件”から1年あまり。そう、HIDEの死です。

このX JAPANのギタリストが急逝したことは、彼に計り知れないダメージを与えました。生前のHIDEは、YOSHIKIにとってかけがえのない相談役。バンドとして活動していたとき、「8割はHIDEと話し、あとの2割は他のメンバーと会話していた」と語るほど、頼りにし、心を許した存在なのです。

そんな大切な仲間を失ったYOSHIKIは、深い悲しみに苛まれました。ロサンゼルスの自宅に引きこもり、食事もろくに摂らない毎日が続いたといいます。体脂肪は6%を割り、不眠症やパニック症状を引き起こし、挙句の果てには、睡眠導入剤を処方してもらっていたクリニックから入院まで勧められたとのこと。
「もう、表舞台に出るのはよそう」。心身共に疲弊のピークだったYOSHIKIは、そう思っていたと後に告白しています。

皇居前広場で送られた喝采 YOSHIKI復活のきっかけに


この暗黒期に届いたのが、奉祝曲の依頼でした。最初に話を聞いたとき、「自分にこんな大役が務まるのか…」と悩んだというYOSHIKI。しかし、母に相談したところ「やるべきだ」と言われ、思い切って引き受けることに。
結果、彼を待っていたのは、皇居前広場に集まった1万5千人が送る万雷の拍手と、天皇皇后両陛下の暖かな眼差しでした。
「僕は世の中に必要とされているんだな」。そう素直に思えたというYOSHIKIは、これを期にミュージシャンとして復活を果たすのです。

一人の音楽家の成り上がりと復活。2つが達成されたという意味でも記念碑的な楽曲である『Anniversary』。気になる方はぜひチェックしてみてはいかがでしょうか。
(こじへい)

YOSHIKI―わたしはあきらめない
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