1993年生まれということなので、ちょうどチェッカーズ解散後、ソロ活動を始めた頃生まれた子供がもうアナウンサーとして人前に出るのだから感慨深い。
藤井フミヤがアート活動を始めた1993年
しかしこの1993年、フミヤにとっては息子が誕生し、ソロ活動を始めただけの年ではない。フミヤ+アートで「フミヤート」の名の下、アート活動を始めた年でもあるのだ。
ロックミュージシャン氷室京介がヒムロ+ロックで「ヒムロック」と呼ばれているが、フミヤはこのとき自らの名を融合させるものとしてアートを選んだわけである。
フミヤートは、当時はまだ一般的な存在ではなかったマッキントッシュやCGを駆使した作品がメインで、当時雑誌などにやたら掲載されていたことを記憶している。
BRUTUSでも「鎌倉の大仏をCGでピンク色にしちゃったぜ、フミヤートってすごいだろ」みたいな記事があり、当時田舎の高校の美術部あがりの大学生だった私は心の中にもやもやしたものを感じていたものである。
桑田佳祐も映画を撮った90年代
当時は芸能人が異業種に進出することが、今以上に盛んに行われていた時代である。例えば、桑田佳祐や小田和正が監督として映画を撮ったのも90年代だ。
彼らの映画が世間であまり芳しい評価を受けず、1~2作で撮るのをやめていったことからもわかるとおり、芸能人が世に出た本業以外で評価を受けることは並大抵のことではない。
真っさらの新人監督と違い、ミュージシャンとして確固たる地位を築いている人間が監督することで「本業歌手の人がたぶん腰かけで撮ったであろう映画」というような変な色眼鏡がついてしまうのである。
アート活動を開始した芸能人は他にも…
フミヤートと時を同じくしてアート活動を開始した芸能人に片岡鶴太郎や工藤静香がいるが、正直なところいずれの活動も世間的な評価を受けたとは言い難い。もちろん個展などは数多く開いているし、工藤静香は芸能人が数多く入選することでおなじみの二科展の常連だ。片岡鶴太郎に至っては国内4カ所に彼の作品専門の美術館・工藝館を保有している。
しかし、どうしても、本業の知名度を利用して「単なる趣味・特技」程度のものを「作品」として商売している、というイメージになってしまい、冷笑まじりに語られることがほとんどなのである。
日本において、そういった色眼鏡を覆すために必要なのは「海外で先に評価された」「実はちゃんとした教育を受けている」といったカードだ。島国根性といえばそれまでだが、日本人はどうしてもこういった権威に弱い。
例えば、北野武は、戦略的に海外で映画監督としての評価を受け日本で根強かった先入観を払拭したし、俳優の伊勢谷友介はアート活動もしているが、東京藝大卒というバックボーンがあることで他の芸能人芸術家と比べ格段に認められている。
藤井フミヤも、片岡鶴太郎も、工藤静香も残念ながらそういったカードを持ち合わせていない。
芸術家・片岡鶴太郎を語るエピソードは「作品を作る時は利き手である右手でなく左手で書く」とかいう、それがどうした的なものばかりである。その状態では、世間の先入観である「腰掛感」「商売感」を払拭することは難しい。
息の長い活動を続けるアート芸能人
しかし、映画監督に進出したほとんどの異業種芸能人が数作で手を引いたのに対し、アート芸能人は息の長い活動を続けている。
藤井フミヤはその後「愛・地球博」のパビリオンの総合プロデュースを手掛け、東日本大震災後にはチャリティアートイベントを開催したし、工藤静香は二科展の入選を続けている。片岡鶴太郎は、絵手紙的な作品だけでなく書道作品なども発表するようになっている。
ただこれも、映画ははずすとリスクがでかい(例えば自身監督の映画興行失敗によって石井竜也は15億円、さだまさしは35億円の負債)のに対し、アートはさしたるリスクもない中、収入は大きく「おいしい」仕事だという感じにも映る。マルチな才能を見せつつ、不安定な芸能活動への保険をかけているようなそんな感さえある。
たとえ冷笑されようとも、それを上回るメリットがあるのか、その後もアート活動を始める芸能人は引きも切らない。
藤井フミヤの盟友、とんねるず木梨憲武もそのひとりで、近年個展を開くなどアート活動に傾倒している。
そういえば、先日、フミヤ・木梨・ヒロミの3人が旅する番組がフジテレビのゴールデンタイムに流れ、これって今の若者からしたら、昔我々が松方弘樹・梅宮辰夫・山城新伍あたりの昔話を聞かされていたのと似たような感覚なんだろうなと思った。
加えて、3人の老後小遣い稼ぎのためヒロミまでアート業界に進出してきたら怖いな、とも思った。
(前川ヤスタカ)
青春 Single, Maxi