昨年、TOKIOの山口達也が離婚を発表した時に、思い出した話がある。1992年「未完のアンドロイド」でデビューしたR&B歌手、米倉利紀のライブに山口達也はよく訪れている。

もともと米倉のファンだった山口が楽曲制作を依頼し、ソロ曲「faith」の作詞作曲を担当した。米倉は、「山口君はテレビで見るのと同じ、本当に誠実で素敵な人」と語っていたし、2015年12月のライブでは、舞台セットのクリスマスリースが「TOKIOの山口君の奥さんの手づくりのプレゼント」だと明かした。

誠実で明るく気さくな夫、夫の友人にセンスのいいプレセントを贈る妻。夫婦共通の友人。理想的な夫婦と思っていたが、半年も経たないうちに急展開があったのだろうか……。
そして、一方の米倉利紀の歌手人生も波瀾万丈の四半世紀だったといえるだろう。


日本のR&B界の先端だった米倉利紀


米倉利紀が尊敬するアーティストはダニー・ハサウェイ、久保田利伸。R&Bが大好きで、日本人離れした甘くセクシーな声質、自由自在に操ることができる伸びやかなファルセットヴォイスが魅力的なシンガーソングライターだ。
山口達也をはじめ、高見恭子、倖田來未らもライブに訪れており、EXILEのATSUSHIも尊敬するアーティストとして名前を挙げている。ライブでのアカペラによる生歌は絶品で、いわゆる玄人ウケする実力派だ。

Kinki Kids、吉田拓郎、坂崎幸之助ら大物ミュージシャンが顔をそろえた「LOVE LOVE あいしてる(フジテレビ系)」のLOVE2 ALL STARSのコーラス隊にも参加したり、和田アキ子、郷ひろみら他アーティストへの楽曲提供やプロデュースなど、幅広い活動を行っていた。

ホームページで突然発表された「契約解除」


2003年10月、米倉の歌声のファンの一人だった筆者は、米倉のホームページにアクセスをして、ショックをうけたことを覚えている。しばらくメンテナンス中だったホームページのトップには事務所からの「非常に残念なお知らせ」として、「所属アーティスト契約を解除しました」と発表されていた。

そして「契約解除」にいたった2つの理由が記されていた。
ひとつは、米倉と身近なスタッフの間の信頼の溝を埋められなかったこと。そしてもうひとつは、米倉が希望した「年間の一定期間プライベートでのニューヨーク滞在」と、事務所が望む「ビジネス的な諸状況」が平行線で、歩み寄ろうにも今後の契約条件が合意にいたらなかった、という内容だった。

アーティストとしての理想とビジネスという現実のギャップ


米倉利紀というひとりのシンガーに期待し、大きく育てるためにプロジェクトを組み、お金と時間と手間をかけた事務所。けれども一方では、米倉本人が描いていた理想と現実のギャップに苦悩や葛藤があったに違いない。そのギャップは、本格派を目指すシンガーなら誰しも通る道かもしれない。

もうひとつの問題は、米倉はデビューと同時に単身渡米し、日本と行き来しながら一年の半分はアメリカに滞在していたことだ。事務所は、当然ながら日本で腰を据えて芸能活動をしてほしいと望み説得したに違いない。


96年の「mad phat natural things」は初のセルフプロデュースアルバムになった。以来、徐々にブラックミュージック色を強めていったが、一般大衆に受け入れられやすいものではなかった。「R&Bの精神を貫きたい、自分のプロデュースで音楽を作り、進化したい」米倉と事務所の距離は徐々に広がってしまったのではないだろうか。

舞台俳優としても活躍する米倉利紀


事務所との契約解除は、実質的な解雇といっていいだろう。ホームページが閉鎖され、ファンクラブも解散し、活動休止状態がしばらく続いた。
ファンは米倉が歌うことをやめること、ステージを降りることを怖れたが、2005年にシングル「情熱灼熱」で活動を再開。
芝居をすることなど視野になかった米倉だが、2008年のミュージカル「レント」への出演をきっかけに演じる面白さを知り、ミュージカルや朗読劇など、舞台でも活躍。ライブ活動も年間を通じて積極的に行い、彼の歌声を愛するコアなファンが遠くからも足を運んでいる。

今こうして自分らしい活動を続けていられるのは、ひとえに歌声という最大の武器であり宝があり、「歌い続けたい」思いは絶えることがないからだろう。変わらずにいる本気と変わり続ける勇気、その両方を今の米倉はバランスよく調整できているのではないだろうか。
(佐藤ジェニー)