平成のプロ野球、最強投手は誰だろうか?

居酒屋で多くの野球ファンが、一度は盛り上がったことのあるこの話題。近鉄時代の野茂英雄、怪我をする前の伊藤智仁、デビュー当時の松坂大輔、5年連続防御率1点台のダルビッシュ有、シーズン24連勝の田中将大と意見は分かれるところだが、30代より上の世代ではこの男の名前が真っ先に挙がることが多い。

今年1月に野球殿堂入りを果たした「平成の大エース」こと斎藤雅樹(現巨人2軍監督)だ。

外れ1位だった斎藤雅樹


斎藤は市立川口高校から1982年ドラフト1位で巨人入団。と言っても、あの甲子園のアイドル荒木大輔(元ヤクルト)の外れ1位指名である。そう言えば、今シーズン初の首位打者を獲得した坂本勇人(巨人)も2006年、堂上直倫(中日)の外れ1位選手だ。外れクジが結果的にチームの未来にとっては大当たり。まさに斎藤もそんなパターンだった。

あだ名は同姓の欽ちゃんファミリー斎藤清六にちなんで「セイロク」。入団後、非凡な打撃センスが評価されて野手転向も検討される中、当時の故・藤田元司監督の助言でオーバースローからサイドスローに転向。結果的にこの決断が球史を変えることになる。

伸び悩んでいた斎藤雅樹


王貞治監督が就任した2年目の84年にプロ初勝利、翌85年には12勝を挙げる活躍。この時代の巨人は、80年代のローテを支えた江川卓(87年限りで引退)、西本聖(88年オフ中日へトレード)らが30代を迎え、定岡正二はトレードを拒否して85年に引退。
チームは世代交代を想定し、81年槙原寛己(大府高)、82年斎藤雅樹(市立川口高)、83年水野雄仁(池田高)、85年桑田真澄(PL学園)、86年木田優夫(日大明誠高)、87年橋本清(PL学園)とドラ1高卒投手を毎年のように指名し続けていた。近年の巨人ドラフト戦略の迷走ぶりからは想像できないブレないドラフト戦略。

それが花開いたのが、89年に藤田元司が2度目の監督就任をしてからだ。
前年の斎藤は中継ぎ投手として38試合に登板。6勝3敗、防御率1.89とそれなりの数字を残したが、メンタルの弱さを度々指摘され、伸び悩んでいる若手投手の1人という印象だった。今の巨人で言えば、宮國椋丞のようなポジションである。

斎藤雅樹の覚醒 2年連続20勝を記録


それが7年目の89年、斎藤雅樹は突如覚醒する。30試合に先発すると、いきなり20勝を挙げる大ブレイク。5月10日大洋戦から7月15日ヤクルト戦まで、プロ野球新記録となる破竹の11連続完投勝利。巨人8年ぶりの日本一に貢献し、自身初の沢村賞にも輝いた。そして背番号11に変更した翌90年にも2年連続の20勝でMVPを受賞。
特筆すべきはこの2シーズンで、なんと計40完投(13完封)を記録していることだ。分業化が進む近代野球の常識を破壊するクレイジーとも言える投げっぷり。ちなみに、16年シーズンのセリーグ最多完投は菅野智之(巨人)、山口俊(DeNA)の5完投ということからも斎藤の凄さが際立つ。

桑田や槙原と「三本柱」を形成


同世代の桑田や槙原と「三本柱」を形成し、89年には3人で年間55完投。あの94年中日との10.8決戦もこの三本柱で投げ勝った。
90年代初頭、桑田は登板日漏洩疑惑等の度重なるスキャンダルに襲われ、槙原も故障がちだったが、斎藤だけはいつも静かに投げ続けた。平成の世に舞い降りた、昭和の大投手のような心やさしきタフガイ投手。

93年から97年まで5年連続開幕投手も務め、いつからかセイロクは「平成の大エース」と呼ばれるようになる。92年にも17勝を挙げ最多勝を獲得。95年18勝、96年16勝で再び2年連続の最多勝と沢村賞を受賞。90年代最強投手の名に恥じぬ獅子奮迅の活躍を見せ、2001年限りで長嶋監督の勇退とともに現役引退。
通算180勝96敗、防御率2.77。11連続完投勝利、沢村賞3度受賞、最多勝5度獲得、3年連続開幕戦完封はそれぞれプロ野球記録として今も破られていない。
 
あの時代、斎藤・桑田・槙原と球史に残る三本柱の中で、巨人のエースは誰だったのか? 当時、巨人投手コーチを務めていた堀内恒夫は、のちに雑誌のインタビューでこう即答している。
「エース?斎藤!斎藤に決まってんじゃん!」
(死亡遊戯)

(参考資料)
『読む野球』ー9回勝負ーNo.8 (主婦の友生活シリーズ)
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