10代の男子が憧れの対象として、服装や人生観を参考にする俳優。この時期の浅野は映画メディアだけじゃなく、ファッション誌やサブカルチャー雑誌で毎月のように表紙を飾り、月刊カドカワでは1998年3月号で総力特集「浅野忠信」が組まれるほどの人気だった。
90年代中盤の浅野忠信
なにせ90年代中盤の浅野忠信のキャリアを振り返ると、凄まじいドライブ感だ。80年代後半、テレビドラマ『3年B組金八先生III』のオーディションに合格。90年には17歳で映画『バタアシ金魚』でスクリーンデビューを果たす。その後、『青春デンデケデケデケ』(大林宣彦監督/92年)、『119』(竹中直人監督/94年)等でキャリアを積んだ後、95年から97年にかけて一気にブレイクした。
この時期に公開された浅野出演の主な映画は、『幻の光』(是枝裕和/95年)、『PiCNiC』(岩井俊二/95年)、『Helpless』(青山真治/96年)、『FOCUS』(井坂聡/96年)、『ユメノ銀河』(石井聰亙/97年)、『東京日和』(竹中直人/97年)、『ラブ&ポップ』(庵野秀明/97年)……とまるでのちの日本映画監督の歴代オールスター戦みたいな豪華さだ。
さらに当時ブームを巻き起こしていた香港映画界のウォン・カーウァイ監督の短編作品にも呼ばれ、手持ちカメラで有名なクリストファー・ドイルによって撮影された本作は、のちに『ワールド・タケオ キクチ』のテレビCMとしても使用された。
この多忙な中、私生活では95年に『PiCNiC』で共演した人気歌手のCHARAとアッサリ「できちゃった婚」。その名前は世間一般にも大きく知れ渡り、カゴメ・トマトジュースのテレビCMではドアップでジュースを飲み干す浅野の姿が日本中で放送された。
90年代が持つ危うさを体現した浅野
驚くべきは、これらの出来事はすべて73年生まれの浅野が20代前半の時に起きた出来事ということだ。とにかく浅野忠信を出しておけば今っぽい。まさに90年代を代表すると言うより、浅野はオウム事件や少年犯罪など不穏な社会的事件が多発した90年代が持つ危うさを、自ら体現できる唯一の俳優だった。
70年代のショーケンこと萩原建一や故・松田優作と同じように、時代の空気感そのものを演技を通して具現化してみせた男。作家・村上龍はそんな浅野をこんな風に評している。「新しいタイプの俳優だな、と思いました。役になりきる、みたいな感じはなくて、別の人格を持つ人に自分の身体を貸す、という感じでしょうか」
不満をぶちまけた浅野忠信
パンクロック好きで知られ、自身もバンドを組んでいた浅野は怒れる若者だった。97年の雑誌『Cut』のロングインタビューでは、「最悪ですよ、日本の映画界! いいものを一生懸命作ろうという、その意識はすごく高いみんな高いんでしょうけど、それにしても働く人の条件が悪すぎますよね」「テレビも面白い話が来ればやるんですけど、テレビって話がないくせに最初にスケジュールとか押さえようとしやがって(笑)それじゃ決められるわけねえだろうって」と映画界やテレビ業界に対して不満をぶちまける20代前半の浅野。
今なら炎上覚悟の言葉の数々だが、当時はまだインターネット黎明期でこれらの発言も許容される空気が確かにあった。恐らく、この浅野の自由さが、まるでロックスターのように当時の若者たちから支持された一因だろう。
あの喧噪から20年。時は経ち、09年にはCHARAと離婚。11年には映画『マイティー・ソー』でハリウッド進出し、14年の『私の男』ではモスクワ国際映画祭最優秀男優賞。日本を代表する役者へと成長した浅野は、42歳になった現在も若いモデル美女たちと度々噂になり世間を賑わせている。浅野忠信は、いまだ90年代特有の自由で不穏な空気感を感じさせてくれる数少ない俳優である。
『FOCUS』
公開日…1996年10月12日
監督:井坂聡 出演:浅野忠信、白井晃、海野けい子
キネマ懺悔ポイント:75点(100点満点)
臨場感を出すためリハーサルをほとんどやらず、とにかく暴れ回ったという浅野が盗聴マニア役を熱演。そのブチギレ方は、当時一部にまだ残っていたCHARAのオシャレな旦那さんというヌルい印象を一発で覆した名作だ。
(死亡遊戯)
(参考資料)
月刊カドカワ98年3月号(角川書店)
Cut97年1月号(ロッキング・オン)
※イメージ画像はamazonよりFocus フォーカス [レンタル落ち]