猿岩石は1996年の10月19日にゴール(日本シリーズの中継と重なったため放送日は22日)。ゴール後、南北アメリカ大陸横断ヒッチハイクを提案されるも、日本への帰国を選択した。
ドロンズが行ったヒッチハイク
宙に浮いた企画に借り出されたのが、石本武士と大島直也からなるマセキ芸能社所属のコンビであるドロンズであった。彼らは『進め! 電波少年』の前説の途中、突如としてカンペでヒッチハイクが提案される。
石本の発した「嫌じゃ!」は本音の叫びであろう。そのまま南アメリカ大陸の最南端であるマゼラン海峡まで連行され、ヒッチハイク企画が始まった。スタート日は96年の11月3日。猿岩石のゴールから2週間ほどしか経っていない。
すべてがアウェー! ドロンズの苦労
ドロンズのヒッチハイクにはさまざまな困難が待ち受けていた。まず中南米はスペイン語圏であり、英語がほとんど通じない。そのため、ドロンズは現地の小学校に入り、子どもたちと席を並べ語学を学ぶ場面も見られた。
さらにペルーでは1ヶ月間にわたり、現地のバラエティ番組にも出演。この過程で、彼らのスペイン語力はぐんぐん上達し、アメリカ入国後も役立つことになる(当時のアメリカ人のうち約10%はヒスパニックと呼ばれるスペイン語話者)。
ドロンズが移動した地域は治安の悪さも目立った。
猿岩石のヒッチハイクは、移動の大部分はアジアであり、日本人はなかば同胞として扱われた。だが、ドロンズが移動した南北アメリカ大陸においてはすべてがアウェーであった。
出発前に改名したドロンズ
もともとドロンズは、D.R.U.G(ドラッグ)というコンビ名を名乗っていたが、ヒッチハイクの行程は麻薬地帯を含むため、あらぬ誤解を受けないように出発前に改名したエピソードもある。
旅先で遭遇する日本人観光客からは、日本での猿岩石の活躍を聞かされることもあったようだ。数々のテレビ出演のほか、CDデビューやドラマ出演を果たし、アイドル的な人気を獲得する猿岩石とドロンズを比べる心ない声もあったという。当人たちはさぞ悔しい思いをしたことだろう。
ドロンズのヒッチハイクの行程は直線距離で1万2千キロにおよび、期間も1年を超える大がかりなものだった。これは猿岩石の倍である。途中、アメリカ合衆国の大部分を、老人とキャンピングカーで移動するロードームービーのような展開も見られた。
猿岩石ブームの影にかくれて、地味な印象となりがちなドロンズの南北アメリカ大陸横断ヒッチハイク企画は、実際のところ刺激に満ちた旅であったのだ。
(下地直輝)
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