ジャンボ鶴田こそ、90年代最強のプロレスラーだったのではないか?
画像出典:Amazon.co.jp「ジャンボ鶴田伝説 DVD-BOX

総合格闘技の波が押し寄せる前の90年代、プロレスファンが集まると必ずといっていいほど話題に上がるのが、「最強のプロレスラーは誰か?」だった。
アントニオ猪木、前田日明、高田延彦、アンドレ・ザ・ジャイアント、ブルーザー・ブロディ、カール・ゴッチ……。

往年のプロレスファンにとって、答えのない永遠のテーマである。
しかし、もっとも正解に近い説得力を感じたのがジャンボ鶴田を推す声ではないか。
対戦相手の力量やダメージによって「落とす角度を変える」という、完全無欠のバックドロップ。
大ダメージを受けても、全身をピクピクと痙攣させてわざとらしく悶絶する余裕を見せる(?)無尽蔵のスタミナ。
ブロディは、「鶴田との試合は疲れる。足が地に張り付いたようで持ち上げるのに一苦労だ」と語り、三沢光晴は「鶴田さんはウェイト・トレーニング含め、練習なしで強靭な肉体を維持していた」と語った。

トップレスラーたちの多くが、半ば呆れたように鶴田を「別格」としてとらえていることも、「鶴田最強説」に説得力を与えているだろう。
果たして、その凄さとは?


強いのに物足りない!?「善戦マン」と揶揄された若手時代


ジャンボ鶴田が「最強」の輝きをもっとも感じさせたのは90年前後だろう。
しかし、そこにいたるまではお世辞にもファン受けするレスラーではなかった。
73年の全日本プロレスデビュー早々から世界タイトルに挑戦するなど、ミュンヘンオリンピックのレスリング・グレコローマンスタイル日本代表の下地を活かし、エリート街道を進んできたジャンボ鶴田。しかし、若手時代は詰めが甘いファイトが目立ち、「善戦マン」という異名を取るほどにくすぶっていた。

83年に「鉄人」ルー・テーズから必殺技のバックドロップを伝授されてからは、日本人初のAWA世界ヘビー級王座に輝くなど、輝かしい実績を重ねるのだが、ファンの心にはなかなか響かない。
他のトップレスラーのようなギラギラした闘志やイデオロギーの主張は皆無。
どこか余裕を感じるために間延びする試合運びも含めて、とにかく感情移入しにくかったのだ。
転機となったのは87年。タッグパートナーだった天龍源一郎が、全日本プロレス活性化のため、もっといえば、煮え切らない鶴田の闘志に火を点けるために、連日激しいファイトで攻め立てた。これに鶴田も激しく応戦し、2人の闘いは天井知らずでヒートアップしていく。
この、いわゆる「天龍革命」により、鶴田がその圧倒的なポテンシャルを存分に発揮し始めたのである。


目覚めたジャンボ鶴田の強さはまさに「怪物」級!


目覚めた鶴田の勢いは凄まじかった。
88年の世界タッグ戦では、バックドロップ3連発で天龍を失神KO。
89年に初代三冠ヘビー級王座に就くと、天龍を迎えた初防衛戦で今度は天龍のお株を奪うパワーボムを超高角度で決め、再び失神KOさせてしまうのだから恐ろしい。
このころから、かつては首筋辺りを狙って太ももを当てる繋ぎ技だったジャンピング・ニーパットも、顔面やアゴに鋭角に当てる殺人技にシフト。
試合に対する熱量がグンとアップし、それにともない、その他の技の切れ味や破壊力も増した鶴田。若手、ベテラン問わず、そのとばっちり的に故障者が続出してしまうのだから、まさに「怪物」の異名にふさわしい暴れっぷりだった。


団体存続の危機を経て、「完全無欠のエース」に覚醒


90年には天龍を含め選手が大量離脱し、「メガネスーパー」の大資本をバックに新団体「SWS」を旗揚げ。全日本プロレスの屋台骨が揺らぐ大事件があったのだが、その際に鶴田は「5年後、いや10年後、SWSに行ったレスラーよりも、社会的、人間的、待遇面、あらゆる面で上回ってみせる」と力強く宣言している。
それまで、団体を背負うイメージが希薄であり、どこかドライな印象もあった鶴田。
団体存続の危機に直面したことで、心技体すべてがそろった「完全無欠のエース」に覚醒したのである。

鶴田は、三沢光晴や川田利明ら「超世代軍」が立ち向かう高すぎる壁として君臨。その鶴田にしごかれることで、選手がレベルアップしていった全日本プロレスは、連日熱戦を展開。各会場は超満員が続き、全日本プロレスはピンチから一転大復活を遂げることになる。
当時、筆者は高校生だったが、日曜深夜の『全日本プロレス中継』に大興奮。
福澤朗アナウンサーの「プロレスニュース」のコーナーも大人気で、視聴率も絶好調だった。
事実、月曜のクラスの話題はプロレスで持ち切りだったのだから、実にいい時代である。


絶対的な強さを見せた91年のジャンボ鶴田


91年もジャンボ鶴田の勢いは止まらない。
1月にスタン・ハンセンから三冠ヘビー級王座を奪取。4月には、三沢光晴をバックドロップ3連発で叩き潰し初防衛だ。
ちなみに、この武道館大会は昭和39年の設立以来最高の入りとされるほどに大盛況だった。
7月にはタッグ戦線で最強を誇っていたスティーブ・ウィリアムスにも圧勝。そして10月には成長著しい川田利明を豪快かつ華麗なバックドロップで葬っている。

対戦相手のファンを絶望のどん底に追い込むほどの絶対的な鶴田の強さ。7年ぶりの「プロレス大賞」に輝いたのは当然の結果であった。


三沢光晴にキレた鶴田の真意やいかに?


この年は天龍戦以来となる「キレた姿」も披露している。
1月には川田の顔面キックにキレて十倍返しの制裁で戦意喪失に追い込み、10月にはエルボーで三沢の鼻骨を粉砕。もっとも、これはアクシデントだったのだが、翌日、無理を押して出場した三沢と対戦すると、痛めた鼻を容赦なく攻撃し、三沢ファンからは悲鳴にも似た絶叫が飛び交う荒れた試合展開に。三沢はもちろん、川田と小橋建太の「超世代軍」の3人がフルボッコ状態だ。
捌いたレフェリーが「お客さんに見せるもの(試合)じゃない」と語るほどの猛攻だったのだが、ここまでキレたのは、元・付き人でもあった三沢が、自身の牙城を揺るがす場所にまできたことを自覚したからだと思われる。
試合後のコメントでは「(負傷箇所を)攻められるのが嫌だったら、リングに上がることはないよ。リングの上は言い訳が効かないんだ。容赦はしない」と突き放したが、これも「次世代のエース」となる三沢に、トップの厳しさや覚悟を見せつけるがゆえだろう。

翌92年秋には内臓疾患を理由に長期リタイア状態になってしまう鶴田。
後に病名がB型肝炎と発表されたのだが、85年の夏の時点で自身がウィルスのキャリアであることが判明していたという。
自身の選手生命が残りわずかであることを悟った上で、信頼できる弟分のような三沢だからこそ、あえてそのリミッターを外したのだろうか……。


肝臓移植手術中にまさかの悲劇が……


公の場に現れた鶴田のやつれた姿を見ると、なんとも切ない気持ちになった。あの強かった鶴田はもう帰ってこない。そう思わせるに十分だったのだ。
復帰はしたが大会場でのスポット参戦のみ。当然、第一線を離れた形だ。

99年には馬場の死去に続く形でけじめの引退。そして、00年5月、フィリピン・マニラでの肝臓移植手術中に大量出血を起こし、ショック症状に陥る。5.8リットルもの輸血を行い、最後まで闘い続けたが、手術開始から16時間後に帰らぬ人となってしまった……。
主治医はマルコス大統領を手術したことがあるほどの方で、手術自体も90%以上の成功確率といわれたなかでの、まさかの悲劇だった。

第1回『UFC』が開催され、「何でもありルール」「真剣勝負」がプロレス界に大きなうねりを起こすことになるのは、ジャンボ鶴田がリタイアした翌93年からである。
もし、鶴田が全盛期のままだったら、格闘技の世界と交わることはあったのだろうか。
一度でいいから、プロレスの枠を超えたファイトが見たかったなぁ……。
(バーグマン田形)