ジーナとフィオ、あなたはどっち派?
ぼくは断然、フィオですね!
宮崎駿作品史上、五本の指に入る「理想の女の子」像だと思う。

「紅の豚」の原作は、『宮崎駿の雑想ノート』シリーズの「飛行艇時代」。
原作と映画の、女の子の扱い
原作にあたるこのマンガでは、ジーナが一切出てこない。
登場するヒロインは、フィオと、マンマユート団にさらわれた名もない女の子の2人。
「飛行艇時代」1話では「マンマユート団は人質に美少女をさらうので知られていた」と記載されている。(アニメではちびっこ幼女集団をさらい、コミカルになっている)
またマンマユート団から逃れるために海に飛び込む少女を見て、ポルコは「イェーイ ヒロインはこうでなきゃ」とも言っている。
単に「さらわれる美少女」役でしかない。
ルパンみたいな美学もなし。「女の子を助けるおっさん」を描きたいだけ。
開き直っていてとても気持ちいい。
17歳の設計技師フィオ。
「アメリカ帰りの少女設計技師」「活発」「可憐でモテモテ」。中年男ポルコの存在を引き立てるにはもってこい。
「男の考える活発系美少女ヒロイン」の決定版だ。
女の子が賞品として価値をもって賭けられちゃうのは、宮崎アニメでも珍しい。
男性視線の少女像
映画上映当時、フィオの2回のキスシーンには驚いた。ラナやサンのような「救命」と違う。
もっとも、「手ェ出さない」のはルパンとクラリスの関係と同じ。
フィオが極端に能動的で、一方的にしただけ。
とはいえ。かっこつけた豚おやじが、女の子に本気で愛されて、唇にキスされる。
マンマユート団の側からみたら、ママの如く厳しく叱ってつつも褒めてくれる若い女の子。
原作では、ズボンを履かずネルシャツ一丁でキスはしてないし、突然服を脱いで泳いだりもしない。
割と「信頼関係」の仲で、ストイック。勝負後もあっさりしている。
ジーナが登場することで、フィオは幼さと女の子らしさがより強調されることになる。

『もののけ姫』公開時に出版された『ユリイカ臨時増刊 宮崎駿の世界(1997年)』では、宮崎駿の描く少女像を、こう評していた。
「その心性においては少女であるよりもむしろ少年であり、それを「男性」作家である宮崎駿の、表現の限界と見ることも不可能ではないだろう」
厳しい。確かにフィオの場合は「中身は少年的で、ダンディズムふかした「大きな子供」に憧れている」という構図だ。
宮崎駿のジェンダー意識はその後、『もののけ姫』から大きく掘り下げられはじめ、『風立ちぬ』の菜穂子の描写に集約されていく。
能天気になりきれなかった『紅の豚』
宮崎駿は『紅の豚』のことを、とにかく卑下する。
原作の載っている『雑想ノート』ですら「あーいうことはやっちゃいけないっていうのは、終わった後の結論でございます」「魔が差したんです……ああいうのは……」。

『風の通る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』ではこう述べている。
「とんでもなくくだらないものを作ってしまったって(笑)」「ほんとにやっちゃいけないことをやってしまったなっていう想いがずーっとありました」
散々だ。
キャラも映像も爽快で面白いのに、何がそんなにダメなのか?
「ヤバイことやってしまったっていう想いはほんっとに、自分の中に残りましたね。いや、嫌いかって言われたらね、嫌いじゃないんですよ。嫌いじゃないけど、やっぱり子供の映画を作ろうって言ってきた人間ですからね(笑)」
宮崎駿はこの前の作品『魔女の宅急便』で、商業映画でのさじ加減に困惑していた。
『魔女の宅急便』は商業的にも成功した、評価も高い作品。
「全力投球じゃなかったなあっていう後ろめたさはあったですね。このくらいの範囲でやればいいんだなっていうことを初めからわかってやってたので、終わったときに自分が暗闇と直面してないっていうか、キナ臭くなるようなことがなかったなあっていうのはありました」
職人的に”手管”で作れるのは、才能だ。
だが宮崎駿は「自分の思想」「国際情勢」「ジェンダー」などに、本気で立ち向かえていない、と感じていたようだ。
『紅の豚』は本来、もっとあっけらかんとした、さっぱりした能天気戦車ムービーになる予定だった、と宮崎駿は語る。仮タイトルは「突撃! アイアンポーク」
当時は湾岸戦争があり、世界が落ち着かなくなっていた。
宮崎駿は「ある種真っ正面からやるには時代が難しすぎて、ちょっと体をかわしたい」という思いで「豚」を選んだ。一方で高畑勲が選んだのは、狸。
だが、舞台のアドリア海がユーゴスラビア紛争ど直撃になってしまい、かわしきれなくなって、苦しむことになる(「風の通る場所」より)。
ガハハと笑えた宮崎駿
本人は悶々としていたとはいえ、『紅の豚』はいい塩梅で大人向けで、ミリタリーありアクションあり萌えありブルースありの、とてもよくできた娯楽作品だ。
ただ、宮崎駿の作家性を求める人からは、一部厳しい意見もあった。庵野秀明は『紅の豚』を「パンツを脱いでない」(まだ気取っている、の意味)(「スキゾ・エヴァンゲリオン」より)と批判している。
そもそも元の案は、JALの機内上映作品の予定だったこの映画。
もし短編のままだったら、自らの反映や戦争問題を含まない、アクションとディティール重視でかわいいヒロインの出て来るのびのびしたアニメだっただろう。
ただ、「ミリタリー趣味」と「戦争への反発」はどうやっても宮崎駿の内部で衝突する。
『紅の豚』での、自分と対立しなかった苦悩は、いずれ直面するしかない問題だった。
本人は『紅の豚』に、まるで黒歴史のごとくきつい評価を下しつつも、この作品自体は「嫌いではない」とも繰り返す。
「息抜きとして『雑想ノート』でバカなことを書いてガハハと笑って。締切を終えた直後は一週間は『雑想ノート』にかけられるとかね(笑)」「戦闘飛行艇みたいな、このまま歴史の中で消えてしまうものを引っ張り出してこれたのはちょっと嬉しかったですけどね」(「風の通る場所」より)
中年男子的「ガハハ」、もっと見たかったなあ。
とはいえフィオのキャラ性は、マンガより「ガハハ」になっていると思う。
監督いわく「道楽」な男臭い部分も、想像以上に「楽しいもの」として、子供に伝わっているはずだ。
(たまごまご)
参考→中国人は宮崎駿をどう観ているのか