かつて、「関西のSMAP」と称されたユニットがあったことをご存知だろうか? もちろん、関ジャニ∞やジャニーズWESTではない。お笑い芸人たちによるダンスユニット『WEST SIDE』のことである。


関西のSMAPを目指して結成されたダンスユニット


WEST SIDEは、2000年4月に関西テレビ『紳助の人間マンダラ』内で生まれた、若手お笑い芸人3組によるダンスユニットだ。
番組司会の島田紳助は、同じく関西テレビ制作の『SMAP×SMAP』が大人気番組だったこともあり、「アイドルがコントをする時代やから、逆におまえらが歌って踊ってもええやないか」と考えた。そこで、「関西のSMAP」をコンセプトに、吉本興業所属の若手の中でも「男前」の上、「歌って踊れる」芸人を発掘するオーディションを開催する。

合格したのは、ランディーズ、ロザン、ライセンスだったが、ライセンスが東京進出を理由に辞退。そこで、繰り上がったのがキングコングだ。
当時、まだ吉本総合芸能学院(NSC)に在学中ながら、「NHK上方漫才コンテスト最優秀賞」を受賞と、史上初の快挙を成し遂げていた。西野、梶原ともに19歳。吉本期待のスーパールーキーとしての大抜擢だった。

実は島田紳助プロデュースユニット第1弾


当初のユニット名は『男前組』。清々しいほどにどストレートなネーミングであるが、これが後に続く紳助プロデュースユニットの第1弾である。
「沖縄アクターズスクール関西」にてダンスレッスンを続けるなど、本気度は本物。デビュー曲のプロデュースは、番組ゲスト繋がりで元シブがき隊の布川敏和に決定。作曲は布川のオファーから、親交が厚いブラザー・コーンとなった。さらに、「関西から風を起こせ!」の意気込みから、ユニット名がWEST SIDEに正式決定と、デビューへの体制は番組内で整えられていった。

もっとも、テレ東『ASAYAN』におけるモーニング娘。に比べると、話題性としては「微風」だった気もするが…。

デビューシングルは関西オリコンチャート2位!


2001年1月のデビューシングルは、発売1週間で2万枚突破。オリコン初登場43位だったが、こと関西地域に絞れば2位となる快挙だ。
ゲリラライブでも1,000人以上を動員、翌月の「うめだ花月シアター」5日間公演はチケット発売後30分で完売など、関西での人気は凄まじいものがあった。

11月発売の2ndシングルはオリコン初登場26位。続く12月発売のアルバムはオリコン初登場19位と、順調にステップアップして行く。
吉本主催の3万人ライブ「base SUMMER SMILE」でも、他の芸人たちが有名曲を面白おかしく歌い上げる中、持ち歌&本気のダンスで勝負。黄色い声援でアイドル芸人としての役割を全うしていた。

先輩に噛み付く…デビュー当時から変わらない西野


当時のアイドル雑誌でのインタビューが面白い。
それぞれのNo.1ポイントをたずねられた際、ランディーズ中川が「大阪の吉本でいっちゃん足速いですよ!!100mを12秒台で走りますよ!!」と語ると、すかさず西野が「速い速い」と持ち上げながらも、「たいして運動してるわけやないのに(笑)」と毒付く。しかも、「でもマラソンなら俺が吉本で一番速い」と、今と変わらぬ煽り体質を発揮。

ちなみに、中川は西野より5歳上で芸歴も4年先輩。この後、ナイナイ岡村や加藤浩次など、数多くの先輩に楯突いていく西野だが、そのスタイルはデビュー当時から確立されていたようである。


『M-1』人気でアイドル芸人に逆風、そしてユニット消滅へ…


順風満帆に見えたWEST SIDEだったが、時代の流れがNOを突きつける。
99年から始まっていた『爆笑オンエアバトル』の人気が爆発し、01年に『M-1グランプリ』がスタートするなど、お笑い界の流れは「笑いに対するストイックさ」「芸の質の高さ」に重きが置かれていた。必然的にアイドル芸人は逆風にさらされることになってしまう。
「笑いたくても笑えないダンスユニット」なんて揶揄されることもあったWEST SIDEは、03年に自然消滅となってしまうのだった。

キングコングの2人はアイドル芸人としての活動に不満を持っていたようで、特に西野は「WEST SIDEの活動は吐き気がするほど嫌だった」「芸能活動で唯一の汚点」と語ったこともあるほど。しかし、時の流れか、現在は再結成も前向きに捉えているようだ。
現在も公式サイト が閲覧可能なのは、再結成への伏線なのだろうか…?とりあえず、メンバーの当時のイキった感じは必見である。
(バーグマン田形)

※イメージ画像はamazonよりDiscover Japan(ディスカバージャパン) 2017年 02 月号 [雑誌](特集:西野亮廣)
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