今から25年前の話だ。

1991年9月8日、どしゃ降りの雨に打たれながら、SMAPは西武園ゆうえんちでデビューイベントを開催した。
のちに解散騒動で日本中を揺るがすことになる彼らだが、同じ頃に西武園ゆうえんちから約3.5km離れた西武球場でも心折れかけているひとりの男がいた。当時、西武ライオンズ所属の「デーブ」こと大久保博元である。

大久保は高校通算52本塁打の巨漢捕手として注目を集め、84年ドラフト1位で西武入団。しかし、当時黄金期を迎えつつあったチームには球界を代表するキャッチャー伊東勤が君臨。伊東は大久保の5歳上。引退を待っていたらオレの選手生命も終わってしまう。ならば打撃力を生かして指名打者か1塁転向と思ったら、今度はあの甲子園の怪物・清原和博が入団してくる不運……。

1軍起用されず…西武時代のデーブ大久保


結局、大久保は86年にアメリカ留学、87年にはジュニアオールスターMVPを獲得するが、当時の森祇晶監督との相性も悪く、捕手としての出場どころか、1軍起用されることもほとんどなく、85年から91年のプロ7シーズンでわずか通算6本塁打。強引に今の球界に例えると、ドラ1大型スラッガーと期待されながらも、プロ8年間で9本塁打しか打てず、今オフ巨人から日本ハムへトレードされた大田泰示のようなギリギリの若手選手だった。

「もうトレードに出してください」
我慢も限界に達した大久保はプロ入り前から慕う故・根本陸夫管理部長に移籍志願。「わがままいってんじゃねえ!」なんて一喝されるも、92年5月8日に中尾孝義との交換トレードで子どもの頃からファンだった巨人への移籍が決まる。根本自ら「石毛、清原、大久保の3人だけは西武から出すな」という堤義明オーナーを説得して実現した移籍劇。
そして、新天地の花の都大東京で25歳の大久保は自らの人生を変えることになる。


臨時ボーナスも 巨人での活躍


巨人での背番号は22。5月12日のヤクルト戦でベンチ入りすると、故・藤田元司監督から「デーブ、行くぞ」の声。代打に送られ、試合途中からマスクを被り自軍もサヨナラ勝ち。翌13日からスタメン出場。ここから崖っぷち大久保の快進撃が始まった。
前半戦終了時までに打率3割、12本塁打の大活躍。打てば負けない強運、強気なリード、感情を表に出すプレースタイルでチームを生き返らせ、一時最下位に低迷していた巨人は「デーブ効果」でセリーグ優勝争いに再浮上。大久保はプロ初のオールスター出場まで果たした。

この救世主に巨人軍最高経営会議は、シーズン中に異例とも言える2000万円の臨時ボーナスを贈ることを決定。後半戦開幕の7月24日、東京ドームで保科代表から手渡された金一封。これに対し、年俸1150万円だった大久保は「年俸とボーナスをたすと、僕は3000万円プレーヤーです」と豪快に笑ってみせた。

28歳で現役引退…その後のデーブ大久保


そんなデーブ旋風も後半戦は失速。翌93年からは「右の代打兼打てるキャッチャー」として重宝されるも、95年に空振りの際に足首を痛め、さらにコーチとの確執もあり、28歳の若さで現役引退。
一瞬の煌めきだったが、92年前半戦の大爆発は野球ファンに強烈な印象を残した。

引退後もそのキャラは健在で、親しくなった相手に対しては「オヤジ」と呼び懐に飛び込み、分かり合えない相手とは時に激しく衝突する。ちなみに巨人時代のチームメイト桑田真澄とは犬猿の仲として知られ、桑田が右肘を故障した際にはスポーツニュースで「なんでダイビングで肘の靱帯が切れるんですかね?」と発言して物議を醸したこともあった。
さらに週刊誌では次々と女性問題が報じられ、選手への暴力行為で裁判沙汰に発展するなど多くのトラブルを起こしながら、2008年には西武の打撃コーチとして「アーリーワーク」を取り入れ日本一に貢献。2015年には楽天監督を務めている。

ある人は「ああ見えて熱心な勉強家」と褒め、ある人は「あんな調子のいい奴はいない」と呆れる。球界OBに聞いても、人によってまったく異なるデーブ評。来年2月で50歳になる大久保は、16年春から東京新橋で居酒屋「肉蔵でーぶ」を経営している。果たして、お騒がせ男デーブが再びユニフォームを着る日は来るのだろうか?
(死亡遊戯)

(参考資料)
週刊ベースボール 92年8月31日号(ベースボール・マガジン社)
週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1992(ベースボール・マガジン社)
夕刊フジ「球界風雲児デーブ大久保 言わせてもらいます」
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