ヨシオカって誰?

日本中で交わされたであろう正月恒例のそんな会話。テレビの中では、白髪まじりの45歳のおじさんが現役選手顔負けの打球を次々とかっ飛ばす。

今年も正月番組『とんねるずのスポーツ王』でリアル野球BAN対決が放送された。坂本勇人や中田翔といった現役バリバリの侍ジャパンチームと対戦するのは、石橋貴明率いる石橋JAPAN。その一員として登場したのが、石橋と同じ帝京高校野球部OBの吉岡雄二である。

エースで4番 高校時代の吉岡雄二


89年夏の甲子園、エースで4番の大黒柱として優勝の原動力になり、同年ドラフト3位で巨人入り。プロ入り後は右肩の故障で投手を断念するも、身長189cmの大型スラッガーとして台頭。プロ8年目の近鉄移籍後に出場機会を得て開花し、01年には26本塁打を放ち近鉄最後の優勝に貢献。
ちなみにこの吉岡がプロ入りした89年ドラフトは個性派高校生野手の豊作年だった。入団拒否したもののダイエー1位元木大介(上宮高)、広島ドラフト4位は前田智徳(熊本高)、そして阪神ドラフト5位は今回の主役、新庄剛志(西日本短大付高)である。

「殺される」レベルが違った新庄の強肩


2年目の91年には9月10日の巨人戦に初出場。代打で初打席初安打初打点を記録するも、1軍13試合で打率.118と苦戦。だが、その強肩はレベルの違いを見せつけ、当時の阪神若手選手が、外野の新庄からの送球のスピードと威力に「あかん…殺される」と震えたという逸話が残っている。

3年目の92年ペナント序盤に4番オマリーが右手首骨折で離脱、代わりに1軍昇格した背番号63の新庄は5月26日の大洋戦で「7番サード」として出場即、第1打席で初球をいきなりプロ初本塁打の衝撃再デビュー。真っ赤なリストバンドをつけた若者はオマリー復帰後もセンター定着すると、この年からメガネをかけてボールがよく見えるようになったという亀山努と「亀新コンビ」を結成。勢いに乗ったチームは、久々に激しい優勝争いを繰り広げる(最終順位は3位)。

新庄は95試合で打率.278、11本塁打、46打点と高卒3年目野手としては充分すぎる数字を残し、翌93年には背番号5を託され、23本塁打を放ちベストナインとGグラブ賞を初受賞。華のある見た目と派手なプレースタイルに加え、メディアの猛プッシュもあり一気にスター選手へと駆け上がった。

唐突すぎた新庄剛志の引退宣言


だが、皮肉にも当時の新庄は阪神選手だけを過剰に取り上げる関西マスコミに窮屈さを感じていたという。さらに故・中村勝広からチームを引き継いだ「鬼平」こと厳しすぎる藤田平監督とは野球観の違いからぶつかり、練習に遅刻してグラウンド上で正座する新庄の姿がスポーツ新聞一面を飾ったことも。結局、95年は打率.225、7本塁打のレギュラー定着以来最低の成績に終わり、12月5日の契約更改の席上であの事件は起きた。
「阪神を辞めたい。環境を変えてほしい」

いきなりトレード志願をぶっこむ新庄。あんな起用法、こんなチーム環境の藤田監督のもとでは野球ができへん。移籍させてくれ…のはずが、19日には話が超飛躍して「自分には野球のセンスと能力がない」と唐突すぎる引退宣言。当時の新庄はすでにチームの顔とも言える看板外野手で、圧倒的な人気を誇るプロ6年目の23歳だ。今の球界に強引に例えると、広島の神ってる鈴木誠也が突然引退を発表するような衝撃だったが、家族とのやり取りもあり、2日後の21日にはあっさり引退を撤回。阪神と契約した。

誰よりも自由だった90年代の新庄


今思えば、「メジャーリーガー」でも北海道の救世主「SHINJO」でもなかった、「90年代の新庄剛志」は誰よりも自由だった。
圧倒的な身体能力と守備力を誇りながらも、打率3割も30本塁打も一度もクリアしたことがない。それでいて、常に異常な注目を浴び続けるトリックスター。

野村克也監督が阪神にやって来た99年には、巨人とのオープン戦で投手としてリリーフ登板すると1回を三者凡退。テレビ解説の中畑清を「意外にカーブ、曲がってますよ~」なんて喜ばせるお祭り騒ぎに。その後、下半身の故障もあり二刀流は断念するが、同年6月12日の巨人戦では延長12回に敬遠球を強引に三遊間に引っ張りサヨナラ打。お立ち台で「明日も勝つ!」と格好良く決めるも、翌日から首位争いをしていたチームは大失速というオチもつけた。
新庄フィーバー、引退騒動、早すぎる二刀流挑戦、敬遠球サヨナラ打……と派手に暴れた新庄は、2000年オフに条件度外視のFAでニューヨークメッツと契約。その後のアメリカと北海道での活躍はご存知の通りだ。

もしも95年12月、新庄が本当に引退していたら、その後のプロ野球界は大きく変わっていただろう。球界再編時、新庄の「これからはパ・リーグです!」というあの台詞がなければ、北海道日本ハムの成功やパ・リーグの躍進もまた違う形になっていた可能性も高い。10数年前、プロ野球の危機を救った男は、現在バリ島で第2の人生を送っている。
(死亡遊戯)


(参考資料)
週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1995(ベースボール・マガジン社)
週刊プロ野球セ・パ誕生60年 2001(ベースボール・マガジン社)
『元・阪神』(廣済堂文庫/矢崎良一編集)

※イメージ画像はamazonよりTHANK YOU新庄剛志―To All People (日刊スポーツグラフ)
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