そういう野球ファンも多いと思う。
それが2014年の野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩あたりから急に「平成」色が強まる。何て言うのか『ファミスタ』から『パワプロ』ぽくなるあの感じ。野茂も佐々木もプロ入りは1990年。14年当時、平成入団選手としての野球殿堂入りは史上初めての快挙だった。
巨人ファンだった伊東勤
そして、今年度のプレーヤー表彰は平成15年(2003年)に引退した伊東勤だ。現ロッテ監督にして西武黄金期を支えた名捕手。所沢高から81年ドラフト1位で西武入り。えっ熊本出身なのに所沢高? これは熊本高で甲子園に出場した伊東の素質を高く買った故・根本陸夫が、わざわざ西武の地元・所沢の定時制に通わせ、同時に西武球団職員として採用するギリギリのドラフト戦略だった。
伊東は小さい頃から巨人ファンで、長嶋・王より高田繁(現DeNAゼネラルマネージャー)の大ファン。だが、当時の巨人はドラ1の山倉和博という六大学のスター捕手の育成真っ只中。
伊東勤が浴びたプロの洗礼
結果的にこの決断が伊東の運命を決定づける。だが、そのスタートは決して順調だったわけじゃない。1年目の春季キャンプで1軍に呼ばれブルペンに入ると、1球受けた直後に10歳以上年上のベテラン投手から「代われ」と一言。おまえはまだ早いよと無言の圧力。
今の新人にこんなことをしたら、同僚へのパワハラネタとして週刊文春の餌食だ。さらに名将・広岡達朗に厳しく鍛えられ、食生活まで徹底的に介入してくる「管理野球」に絶望する伊東。だが、実際に怪我が減り、チーム成績が上昇するのを目の当たりにし「ああ、こういうことか」と最終的に納得したという。
捕手歴代最多となる盗塁数をマーク
キャッチャー伊東勤の打撃成績を振り返ると、通算2379試合で生涯打率.247、1738安打、156本塁打。のちの古田敦也、城島健司、阿部慎之助らの「平成の打てる捕手」と比較すると物足りなさは否めない。だが、伊東は「打てる捕手」ではなかったが、圧倒的に「勝てる捕手」だった。
常勝西武の不動のレギュラーとして、捕手歴代最多の11度のゴールデングラブ賞を獲得した守備面だけでなく、打撃面でもチームに大きく貢献。その象徴的な数字が捕手としては突出した盗塁数と犠打数である。
少年野球時代は足の速さを買われ「1番捕手」で出場していた伊東は、プロ入り後もその俊足は健在で84年には20盗塁を記録。
それまでのぽっちゃり体型の捕手像を変えるスマートな「走れる捕手」の出現。80年代後半を描いた名作映画『横道世之介』の中では、お茶の間のママのアイドルとして黄色い声援を浴びる、若かりし日の背番号27の勇姿が確認できる。
「走れて繋げて勝てる捕手」伊東勤
そして、もうひとつ伊東が誇りを持っていたのが犠打数だ。通算305犠打は川相昌弘、平野謙、宮本慎也に次いで歴代4位。1番や2番の上位ではなく、下位打線を打つ捕手としては驚異的な数字である。伊東自身も自著で「これだけ犠打をしてなかったら通算2000安打を打てたのではないか」と手堅い森野球に自ら突っ込む繋ぎの意識。求めるのは個人記録より、組織の勝利。
森祇晶監督率いる黄金時代の西武野手陣と言えば、秋山幸二・清原和博・デストラーデのAKD砲クリーンナップの破壊力やキャプテン石毛宏典の勝負強さ、辻発彦の好守備や神走塁が目立っていたが、チームをど真ん中で支えていたのは扇の要・伊東勤だったと言っても過言ではないだろう。
球史に残る「走れて繋げて勝てる捕手」。実働22年で14度のリーグ優勝、8度の日本一という選手時代の凄まじい実績を引っさげ、引退翌年の04年から西武監督を務めるといきなり日本一。09年WBCでも侍ジャパン総合コーチとして連覇に貢献。
(死亡遊戯)
(参考資料)
『勝負師』(伊東勤/ベースボール・マガジン社)