4年に1度のWBCを戦う、侍ジャパンの監督は重い仕事だ。

連覇経験があるので勝って当然。
前回大会のように、ベスト4進出でも負ければ叩かれる。例えば、15年のプレミア12準決勝で韓国戦に逆転負けしたときも、小久保監督の継投失敗がバッシングに近い非難を浴びた。

過去に侍ジャパンでコーチを務めた高代延博(現:阪神ヘッドコーチ)の言葉を借りれば、野球人として代表チームの仕事はほとんど「名誉職」だ。高額報酬が約束されているわけでもなく、拘束期間も長い。得るものより、失敗した時のリスクが高すぎる。
過去の侍ジャパン監督と比較しても、45歳という若さでWBC日本代表の指揮を執る小久保裕紀監督とはどんな野球人生を送ってきたのだろうか?

優秀な弟、投手クビ……小久保裕紀の屈辱


4年前の13年に発売され、ガチで本人が書いたと話題になった小久保の著書『一瞬に生きる』(幻冬社)によると、和歌山県で生まれ育った野球好きの小久保少年は、中学時代は投手としてボーイズリーグの和歌山キングタイガースでプレー。
ここで入学時に18名いた同級生が、中3の卒部時にはたったの2人しか残らない猛練習に耐え、いざ高校進学。名門・智弁和歌山高のセレクションを受けるも、「投手は不合格で野手なら合格」という想定外の通知に戸惑い、最終的に投手にこだわりを持っていた小久保は和歌山県立星林高校へ入学する。

副キャプテンとして熱血監督のもとで甲子園出場を目指すも、3年時には惜しくも県予選準決勝で敗退。しかし、この大会でなんと2歳年下の弟・隆也は兄が入学しなかった智弁和歌山高の一員として、1年時から主戦投手で活躍し甲子園出場。
のちに小久保がプロ入りしたと聞いた地元和歌山の人は、てっきり弟のことだと勘違いした人もいたほど、小久保兄より弟の方が有名だったという。

勝手にライバル視していた年下の弟に先を越される屈辱……意外だ。小久保裕紀と言えば、青学から逆指名でダイエー入りして苦労なくレギュラー獲得後、一気に看板スターへと駆け上がったエリート選手というイメージが強かったが、著書で弟に嫉妬していたとカミングアウト。
思わず親近感すら感じてしまう。
しかも90年に入学した青山学院大学では、投手としてのデビュー戦で1/3回を4失点と炎上。さらに、当時の東都大学野球が誇る駒沢大のスーパーエース若田部健一(91年ダイエー1位&元HKT48若田部遥の父)に特大ホームランを食らったことにより、監督室に呼ばれ「投手クビ」を通告される。

ダイエーホークスに入団後、本塁打王にも輝く


だが、小久保の心は折れなかった。投手クビの瞬間、プロに行くなら野手の方が確率が高いぜと心の中でガッツポーズをかます鋼のメンタル。その後内野手に転向すると、大学球界No.1スラッガーとして頭角を現し、92年バルセロナ五輪野球日本代表にチーム最年少で選出。93年ドラフトでは最注目選手として堂々とダイエーホークスを逆指名する。
当時の球界はまだ殺伐とした空気が色濃く残っており、期待の新人小久保がプロ初のお立ち台に呼ばれ、ご機嫌でロッカールームに戻ると、強面の先輩選手から「おい、ルーキー。ヒーローインタビューで両手を上げるのはまだ早い。片手にしておけ」と注意されることもあったという。

1年目はわずか6本塁打に終わった小久保は、オフにハワイ・ウインターリーグへ参加。遠征時のホテルでは、時にセミダブルのベッドに同僚の村松有人と背中合わせで寝るようなハードな環境で野球に打ち込むハングリーな日々。

そして、王貞治が監督就任した95年の2年目シーズンは、キャンプでポジションを争うベテラン石毛宏典が小久保とダッシュ走のタイムを競う際に肉離れを起こし戦線離脱。
なんだかよく分からない幸運にも助けられた2年目スラッガーは28本塁打を放ち、見事イチローの三冠王を阻止する本塁打王に輝く。24歳の「4番セカンド」がホームランキング。さりげなく14盗塁。まるで90年代の山田哲人である。

侍ジャパン監督・小久保裕紀


98年、小久保は信頼していた税理士に裏切られる脱税事件を起こし8週間の出場停止と罰金400万円を科され、右肩も手術。わずか17試合の出場に終わり、プロ入り以来初めてと言ってもいい大きな挫折を味わうが、翌99年には24本塁打、77打点でダイエー初の日本一に大きく貢献。
その後キャプテンとして大活躍するも、03年オープン戦でクロスプレーの際に右膝に大怪我を負いアメリカで手術。その際、手術費がほぼ全額自己負担など、球団の対応に不信感を覚え、オフには無償トレードという形で巨人へ移籍。

新天地でもキャプテンを務めるが、06年オフに自身の意志でFA権を行使し、福岡へ舞い戻る。すでにダイエーからソフトバンクへと親会社は代わっており、小久保は再び中心選手としてチームを引っ張り、11年シーズンには40歳で日本シリーズMVPを獲得。12年まで現役を続け、通算2041安打、413本塁打の成績を残した。当然、秋山幸二監督の後継者とも言われたが、2013年10月に野球日本代表監督に就任。


18歳で弟に先を越され嫉妬し、19歳であっさり投手をクビになった男は、圧倒的な練習量でスター選手へと成り上がり、若き日本代表監督として1カ月後に迫った第4回WBCで侍ジャパンの指揮を執る。果たして、この3年半の集大成と位置付けられる大会でいかなる運命が待ち受けているのだろうか?

ちなみに27年前、小久保が野手に専念するきっかけとなる特大ホームランを放った若田部健一とは、のちにダイエーのチームメイトとして再会。若田部はことあるごとに「今のお前があるのは、俺のおかげだ」と笑うという。
(死亡遊戯)


(参考資料)
『一瞬に生きる』(小久保裕紀/幻冬社)
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