長年、日本のスピードスケート界を牽引し、1998年の長野オリンピックで金メダル1個、銅メダル1個、2002年のソルトレイクシティオリンピックでは銀メダルを獲得した清水宏保。
昨年放送された『しくじり先生 俺みたいになるな!!』で、その半生について告白している。


清水宏保の凄すぎる成績


1974年、北海道に生まれた清水宏保は、3歳からスケートを始めた。中学生のときに全国大会初出場すると、高校では、高校新記録も達成するほどの選手へと成長。

清水が初めてオリンピックに出場したのは、19歳のときのリレハンメル五輪(1994年)。500mの部で見事に5位入賞を果たした。
そして次に開催された長野五輪では、500mで金メダル、1000mで銅メダルを獲得。日本スケート界初の快挙であった。

2002年のソルトレイクシティオリンピックでも銀メダルを獲得(1位とはわずか0.03秒の差だった)した清水は、まさに日本が誇るスポーツ選手であった。

モデルと結婚、順風満帆に思えたが……


これらの輝かしい成績を打ち立てたスポーツ選手なら当然、精神的、肉体的にもストイックというイメージを世間は当然持つ。

しかし「しくじり先生」で語ったところによると、いつも心は“モテたい”気持ちでいっぱいだったことを告白。
「モテたい」一心で上京し、日本大学に進学したことや、大会に向けたモチベーションも「勝てばモテる」という願望だったことを明らかにした。

そうした努力も実ってか、2010年3月にファッション誌「AneCan」の専属モデル・高垣麗子と結婚。私生活でも幸せを手に入れたように思えた……。

清水宏保が味わった離婚と落選


しかし清水は、結婚以降も"夜遊び"を辞めなかった。結婚前は週6ペースで飲みに行っていたというが、新婚にもかかわらず六本木などへ変わらぬ頻度で繰り出してたようだ。


そして結婚した翌年の2011年、銀座のホステスとの浮気疑惑を「FRIDAY」にスクープされてしまう。この記事が原因となり、同年12月にスピード離婚。結婚生活わずか1年9か月での離婚となってしまった。

離婚後、一年間もの無収入生活を送っていた清水は、鈴木宗男氏からの誘いで、地元北海道から出馬。しかし、奮闘むなしく落選してしまった。

またもや逆境に立たされた清水であったが、へこたれなかった。理想はそのままに、政治家以外の道を模索し始めたのだ。
彼は、個人で会社を作り地元で治療院を開業することを決意。札幌市に治療院を開設すると、つづいて介護、訪問看護事業もスタートさせた。

「しくじり先生」では、世界に通用する選手を育てるという新たな夢を掲げ、指導者としても恩返ししていくことを誓った清水。清水以来となる日本人のスピードスケート金メダリストをぜひ育ててもらいたいものだ。
(せんじゅかける)

※文中の画像はamazonより神の肉体 清水宏保
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